「………」

――そっと息を呑んだ。がたがた、と震えだした身体はやはりこの目の前の危険を知らせているからなのか。まるで私は蛇に睨まれた蛙のごとく動けずにいた。

鬼鮫と言う男はもう居ない。只、この空間には私と目の前の男しか居ないのだ。私はあの赤い目で殺されるのか?不意に恐怖が私を襲う。何故?望んでいた筈だと言うのに何故私は今恐怖を感じたのか。何故全身の震えが止まらないのか。分からない。否、きっと分かりたくないのだ。



自然と地面に落としていた目をぎゅっと瞑り込んだ。そうして、己の身体を力一杯に抱き締める。震えなんて止まりもしないが何もしないよりかはましだと自分に言い聞かせて、今もそう目の前にいるだろう男から今すぐにでも逃げ出したい気持ちを抑え込んだ。その瞬間だった。



「っ、!」

悲鳴も上げる暇もなかった私は大きく身体をびくつかせた。あの男の手であろうものがゆっくりと私の頭に置かれたのだ。私はそれを振り払う勇気もなく只、体を強張らせれば置かれた手は私の頭をまるで幼い者にやるかのように優しく撫でた。不意に思い出された幼い記憶、誰もが撫でられたことのあるもの。―――涙が溢れた。



「…どう、して…優しくするんですか…」

伏せた顔を上げれば、既に赤い目はそこに無く綺麗な黒い目がそこにあった。酷い泣きっ面を晒しながらも問えば男は何故か困ったような笑みを浮かべる。

「…どうして、か…」

「私は貴方に、そんな…っ」

「俺にも分からない、」

「…え、」


分からない、と口にした男はまたゆっくりと私の頭を撫でてからうっすらと笑みを浮かべた。先ほどまで怖くて堪らなかったと言うのに、今の私に目の前の男による恐怖は一欠片も無かった。「名前は?」唖然とするしかない私にゆっくり問い掛けるその言葉に、私は恐る恐ると口を開いたのだ。


「…月光、朧」

「…朧、か」

良い名前だな、とぽつり男は呟いた。それに私は上げた顔を伏せた、良い名前だなんて言われたことが無かったのだ。どういう対応をすれば良いのか、どういった表情をすれば良いのか、私には分からない。

「…どうした?」

「…分からない、の」

どんな対応を表情をすれば良いか分からないと半分投げやりに口にする。そうすれば頭上から数秒後に男は今はそのままで良いといった。それに小さく頷けばまたふわりと頭を撫でられる。まるで兄のようだ、と薄れゆく意識の中で呟いた。


end (20121111)