いちばんやさしい呪いの言葉



「紬さんは、白(ハク)さんのことが大好きなのですね」



洗濯物を干している最中、室内から珠世様が言った。



「・・・珠世様、すいません聞こえなかったのでもう一度お願いします」
「ふふ」



照れ隠しだと思われているらしい。
美しい笑みを浮かべた珠世様は、部屋から出ずにのんびりと茶をすすっている。ふわりと良い香りのするそれは普通の茶ではなく、なんでも“紅茶”という、西洋から伝わってきたものだとか。色が綺麗だと師匠が興奮していた。




「白さんが貴女のことばかりお話していたものですから、つい気になってしまいました」
「はぁ」



白さん、というのは師匠の名前だ。姓は知らないけれど、本人もそう名乗っているし街の皆もそう呼んでいる。




「で、私が、師匠を好きというのは?弟子が師を敬うのは当然のことかと」



ぱんっ、とシーツの皺を伸ばす。今日はよく晴れているおかげで気持ちよく乾いてくれるだろう。




「ええ、そうですよね。でも、何故紬さんは白さんを名前で呼ばないのですか?喜びますよ?」
「私が教えを乞うているからです。一人で生きていける力を指南して頂いている方の名前など、恐れ多くて呼べません」
「では、女性の体に似合わないその傷は?まさか暴力を奮われている訳ではないでしょう?」



す、と紬の首元を指差して珠世は言う。真剣な声だ。
本当によく見ている人ですね、と紬はため息を吐いた。




「着物でうまく隠れていると思ったのですが」
「それは職業柄、ですね」
「そういうものですか?」
「はい、そういうものです」



にこ、と微笑みでその続きを促される。



「剣術を少々・・・実践には遠く及びませんが」
「廃刀令のこの時代に、剣術・・・ですか」
「まぁ、使わないのが一番ですが、身を守る術はあって損はないと・・・その、師匠が」



あとはそれなりの護身術と、脚力をつけるための走り込みと瞬発力を高めるための縄跳び、岩飛び、滝行等々。普段はのほほんと虫も殺せないような顔をしている師匠だが、鍛錬中は鬼のように厳しい。笑顔で木刀を突きつける、気絶したら水をかけて強制的に起こす、座禅座禅座禅・・・そしてそのあとの揉みほぐしもまた地獄だった。毎回、体力の限界を超えるのではと心配になる程。

その反動というべきか鍛錬以外はとにかく甘い。食事は適度、しかし着物や簪、帯留め・・・事あるごとに褒美として渡そうとしてくる。衣食住の“衣”だけやたらと華美だ。正直あまり嬉しくない。いや、気持ちとしては嬉しいが、なんというか俗っぽいというか、素直に喜べない。




「白さんは不器用なりに気持ちを伝えたいだけだと思いますよ」
「はぁ、物で釣られているような感じがどうも苦手で」
「まぁ!気にする必要はまったくないかと・・・すっきりした方ですし。それに、物は使われてこそ真価を発揮するものですよ」



意味深な言葉ではあるが、その通りだと思った。



「紬さん」
「何でしょう?」
「貴女は、もっと自分に自信を持ったほうが良いですね」



師匠と珠世さんはどれくらいの付き合いなのだろうか。少なくとも血縁ではないし、自分が暮らし始めて顔を合わせるのが今回が初めてにしては、お互いの事を分かり合えているような気がした。
しり、とまた胸に焼けるような痛みが走った。



「白さんは充分あなたを認めていますよ。・・・でなければ、こんなに長い間、自分の傍に人を置くはずがありませんから」
「それは・・・私に身寄りがないからで」
「良い話もないのでしょう?美しく聡明に育った女性の嫁ぎ先などいくらでもあるのですよ」
「・・・私の嫁ぎ先?」
「考えているのか、いないのかは分かりませんが・・・幸せになって欲しいから、手元にいる今のうちに多くを学んで欲しいのだと思います、きっと」
「・・・・・・まさかそんな」
「今はまだ考えられなくても、いつか素敵な方が現れますよ」
「うーん・・・」




やはりよく分からない。
女に学なんて、と言われている時代に勉強できる環境があるのはありがたい。しかし衣食住に困らない生活があるのは師匠がいて成り立つものだ。殿方と添い遂げることも幸せの一つ、と珠世さんは言うけれど、周囲の人間関係を見ているとそうは思えなかった。

タダ飯ぐらいになるつもりはないが、師匠の近くにいる方が余程価値がある。何より、恩を返す前に嫁ぐなどありえない話だ。



「師匠がまず良い人を見つけてくださらないと」
「あら、愈史郎と話が合いそうね・・・」
「師匠を幸せにしてくれる方がいれば、ですが」



紬がきっぱり言い返すと、珠世は大きな目をさらに見開いて、「お互い様ですね」と呟いた。小さな声だったが、ちゃんと聞こえた。少しだけむっとして物干し竿に向き直った。




「それよりも、先のことを考えて散財しないように珠世様からも伝えていただけると嬉しいです」
「まぁ」



今日も日差しが眩しいなぁ、とわざとらしく言えば、室内から同意の声が返ってくる。ああ、なんだか師匠に似ていると頭に浮かんでしまってはもうダメだった。赤子のように手の平で転がされている感覚がありつつも、決して嫌ではない自分が情けなく感じだ昼過ぎだった。









縁側で話したあの日から、珠世と紬は距離が近くなった。
といっても、師弟のような距離感でなく近所の仲の良いお姉さん程度だが、師である白は何か感じたらしく、年甲斐もなく頬を膨らませた。挙句の果てに「紬も珠世さんに診察してもらいなさい」と言う始末である。嫉妬だ。普通なら二人の間に自分が入るなり接近禁止といえば済むのになんなんだ、と変に思うかもしれない。だが、数年といえどともに暮らした紬は気づいてしまった。いや、気づきたくなかったけれど。



「(優しいお姉さん、から痛いことをする怖い人、に印象変えするつもりだ・・・)」



注射は痛いものだ、痛いのは嫌いだ、とぼやいていた気がする。。
そんなこんなで、珠世に診察されること十数分。



「すいません珠世様・・・その、アレな師匠で」



どんよりと表情を曇らせて謝罪する紬の前には、医療器具を丁寧に扱う白衣姿の珠世。お互い顔に浮かぶのは苦笑いである。



「素晴らしい方のはずですよ、紬さんへの執着を除けばですが」
「執着というより子供の我が儘ではないでしょうか・・・」



自分が珠世様に向けていた感情が阿呆のように思えた紬は、深く長いため息を吐いた。




「はい、では袖を膜ってください。少しちくっとしますが、動かないでくださいね」




二の腕をゴムひもできつく縛られ、アルコールを少量染みこませた脱脂綿で採血部を拭かれる。




「怖くないですよ、多少痛みはありますが、直ぐに終わるので安心してくださいね」




普段目にしない注射器や聴診器といった医療器具が珍しくて仕方ないだけだったのだが、紬がじっと注射針を見ているものだから勘違いしたらしい。苦笑していると、ふと真顔になった珠世が針の先端を腕に沈めた。ぷつ、と鋭い針が肌に刺さる。血管に上手く入った針は血液を透明なチューブに流し込んでいく。容器に赤い血が溜まっていくのを見ていると、不思議なことに頭が冷めていく感覚があった。




「抜きますね、腕の力を抜いて結構です・・・はい、これで終わりです」
「ありがとうございました」
「まだ完全に血が止まっていないので、しばらく上から抑えていてくださいね、お疲れ様でした」




問診と身体検査と血液検査と、どれも想像の範囲内の痛みで我慢できないほどのものではなかった。白の思惑通りに行かなかったことにどこか安堵しながら、紬は身支度を整えて帰路に着く珠世を見送ったのだった。
















「あれ、珠世さん帰っちゃったの?」
「師匠を呼びに行こうと思ったのですが・・・急ぐから大丈夫、とのことで。あ、珠世様からこちらのお手紙をお預かりしました」



どこへ行っていたのか膨らんだ風呂敷を手にした師匠が姿を現した。少しだけにやけているのは気のせいだろうか。




「残念ですが、ちっとも痛くありませんでした」
「えっ」
「どうぞ」




珠世から託された手紙を差し出すと、受け取った白はその場で開封して読み始めた。もちろん紬の位置からは手紙の内容を読むことはできないのだが、なんとなく気まずさを感じ視線を逸らした。

内容は気にならない。しかし、手紙を呼んでいる師匠が気になる。妙な静けさを孕んだ空気の中、耐え切れなくなった紬はちらりと白の表情を盗み見た。





「(――――え?)」




微笑んでいるか悪戯っぽい顔をしているか、どちらにしろ喜びの表情を浮かべているだろうと思っていた紬は息を飲んだ。
そのどちらでもなかった。




「し、師匠?」




力がこもっているせいか手紙を持つ指先は白くなり、紙にはシワが寄っている。美しい眉は形が崩れ、唇もぐっと閉じられていた。そして、なにより紬が驚いたのは、白の瞳に見たこともない暗鬱な感情が宿っていたことだった。怒りとも悲しみとも取れない、苦悶の色。少なくとも、良い知らせではない内容がそこにあったのだろう。




「・・・ああ、うん、そうか・・・そうか」




独り言をこぼした白は、手紙ではない先を見ていた。




「紬」


名前を呼ばれ顔を上げると、白と目が合う。そこに先程までの暗い感情はなかった。





「はい」
「今度、一緒に温泉旅行でもしようか」
「え?」
「ちょうど仕事もひと段落したし、美味しいものを食べてゆっくりしよう?」




あまりにも優しい声を出すものだから、拍子抜けした。



「少し遠くまで行ってみよう、浅草とかどうかな?」




楽しみだなぁ、と鼻歌交じりだった。
別の意味で言葉を失った紬だったが、白は手紙などなかったような軽快な足取りでその場を去った。







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