彼は音もなく去り、女性だけがその場に残る。
(ああ)
(今日も、空が青いな)
彼女―――匂宮歪夢は、平穏という言葉を知らなかった。
それはもともとの生い立ちにあるのだが、他の人生を知らない彼女にとってはいまいち“平穏”がどういうものなのか分からなかった。
何せ、彼女は“殺し屋”の集団。
頼まれれば誰でも殺す“殺し屋”として、裏の世界では知らないものはないと称される程の存在に、いつの間にかなっていた。
さらに言えば、彼女は“人類最善”でもあった。
“力”の一点のみではあるが、あの最強と最終をはるかに上回る戦闘能力を持ち、遊びの範疇でさえ圧倒的な差をつけて勝利したこともあった。最強は悔しげに地団太を踏み、最終は唖然としていた。
それほどの強者が、どうして平穏無事に暮らせようか―――当てはめるなら、四面楚歌。周囲にとっては驚異以外の何物でもない故に、条約やら機密やらに縛られて生活している。
敵だらけの毎日で、周りの景色を眺める暇もない。
「・・・眠い、な」
柱にもたれかかり、うとうとと目を伏せながら歪夢は空を仰ぐ。
頭がゆらゆら揺れるたびに、絹糸のように滑らかな黒髪が流れた。
「――――・・・」
ふいに、上空から微かなうめき声が聞こえた。
見るとそれは奇妙なもので、黒い点がだんだん大きくなっているのだ。
例えるなら、落下物が近づいてきているような。
例えるなら、ちょうど人間ぐらいの大きさだろうか。
「・・・人間?」
しかも、落下地点はこの屋敷の真上。
どれくらいの高さから落ちてきたのかは知らないが、そのまま落ちれば衝突死は間違いない。
従者に命じれば即座に解決してくれるだろうが、彼女はそこまで人使いは粗くなかった。というよりも、まず自分で動いた方が速いということを分かっていたのだ。
よっこいせ、と立ち上がり態勢を低くして、次の瞬間には地面を強く踏んで高く高く跳ねた。
そして再び姿を現したと思えば、その腕の中には人影が。
歪夢は人影をのぞき込み、
「うん?ああ、ふむ・・・・そうだな、」
と、腕の中で気を失っている子供に目をやった。
落下の速度に伴い重力の増した人間は想像以上に重い。
確かに衝撃はかなりのものだったが、歪夢にしてみれば何のことはなかった。
それよりも
「(何故血塗れなのだろうか)」
少年というには小さいような気もするが、おかしいのはその状態だった。
纏っている着物は上等、顔立ちも幼いながらに整っていて、気絶していても気品がある、大人になればさぞもてはやされるであろう容姿。
見たことがなかった。
「(十六夜にやられたのか、それとも“何か”に巻き込まれたのか・・・)」
従者である彼ならやりかねない。
「ぅ・・・・・・」
青白い頬には血がこびりつき、着物は既に乾いて硬くなっていた。
怪しい。
うめく少年には悪いが、この屋敷にしばらく居てもらうことになるだろう。
十六夜に問い詰める必要があるし、この少年にも聞きたいことがある。
「厄介ごとは嫌いなのだがな・・・まぁ仕方ないか、はぁ・・・」
少年を部屋に連れて行き、布団に寝かせた。
乱れていた呼吸は僅かに整い、苦しげに歪められていた表情は幾分か穏やかになっていた。
「(こんな子供が何故空から落ちてきたのだろうな)」
歪夢はその布団の横に腰を落とし、今ごろ侵入者と対峙しているであろう十六夜の帰りを待った。
(ただ今戻りま・・・・・・・んん?なんですか、この餓鬼は。歪夢様、僕に黙っていつの間に産んだのですか?)
(いや落ちてきたんだ)
(落ちている物を拾ってくるなと言ったはずですが)
(・・・・悪かった)