Mement mori | ナノ

【おやすみ。】


 



 これはやばいな、って、思った。同時に、死んだかな、とも。
 だって、目の前にさ、見たことのないような鋭い牙と爪を持った大きな獣とかが、明らかに殺意剥き出しで迫ってきたら、どんなに危機感のない人間でもやばい、って思うんじゃないかな。あ、でも紙面とか画面でなら見たことあるかも。近頃の人間の創作力は舌を巻くものがあるから、ああきっとそんな作り話の世界にはこんな怖い顔をした獣がいるんだろうな、って思った。

 人はこういう瞬間をコマ送りみたいに感じる、ってよく聞くけどわたしの場合はそんなことなくて、ただ唾液でぬらりと光る刃物みたいな牙がすごい速さで眼前まで迫ってくるのが見えて、わたしの体重じゃとてもじゃないけど支えられないような衝撃を受けて、目まぐるしく視界に空が移る。綺麗な夕焼けの色だった。獣の獰猛な唸り声と共に酷く嫌な音を聞いたような気がしたけど、不思議と痛くない。ああ、これは、死んだな。
 重くなる瞼の隙間から差し込む光が、何かに遮られた。大きな影と、紫色、だったような気がするけど、確認なんてできない。何故ならわたしの意識はすぐに失われてしまったから。



 おやすみ、世界。

 また明日なんて、言えないけどね。



























 ―――意に反して、わたしの“あした”はやってきた。目を開くと、見慣れない天上がそこにはあって。生きている。呼吸している。心臓が動いている。

 窓から差し込む柔らかな橙色の光にすら、開いたばかりのわたしの目には鋭く刺さってくる。痛みを錯覚して眉を顰めながら、ここがどこか把握するためにも起き上がらなければと身体を起こそうとした。
 が、動かない。指先の一つくらいは動いたかもしれないけど、動かない。身体に力が入らない、といった方が正しいだろうか。
 しかし無理に起き上がる必要もない、わたしが横になっているのは、ふかふかした寝台だ、それにご丁寧な掛け布まで賭けられている、ついでに目線だけを動かせば腕に白い包帯が巻かれているのも見えた。手当て、されているらしい。
 更にそのついで。目に入ったのは、何やらふさふさした焦げ茶色毛、の、塊、みたいな何か。それはゆっくりと上下していて、先刻までよりも若干言う事を聞くようになった身体を叱咤しながら身体を起こせば、全体像が見えた。人だった。
 ふさふさの毛の塊は結い上げられた人の髪の毛で、その髪の持ち主はと言えば、わたしが横たわっていた寝台に突っ伏して寝ている。気持ち良さそうに寝息を立てるどころか鼾をかいていた。今までよく気付かなかったな自分、認識してしまうと煩い。非常に煩い。その人はどっかで見たことあるような紫色の羽織を着ていて、何かこの辺でお祭りでもあるのかな、みたいな、だって羽織に髪結いって、ねぇ。羽織越しにも分かるその背中の逞しさの感じからして、この人は多分男性だ。多分だけど。


 あまりに気持ち良さそうに寝ているのだから起こすのも悪いな、と思った。暫くその紫の羽織の人を見下ろして、どうしたものかと考える。わたしの全身には包帯が巻かれているようだったが、不思議なことに痛みはない。若干の違和感は残っているが、包帯の量からして相当の怪我だったろうに。ふと眼前に迫った牙を思い出して肩を竦めた。あれがこの身を裂いたのかと思うと、そう考えただけで、何か、痛い。
 けど、その痛みがなくなるほどの時間、わたしは眠っていたということか。それは酷い。まず、ここはどこなのだろう。窓からの光で今が夕暮れだというのは分かるけど、それ以外は何も分からない。ここは誰わたしは何処、じゃなくて、ここはどこで、わたしはどうしてここにいるんだろう、あとこの人誰、ついでに何だったんだろうあの作り話によくいそうな獣というか化け物というか。うん、自分が誰とか言い出さないだけましだよね、わたし。

 そんなしょうもないことばかり考えて自分をはぐらかしていると、すぐ傍で身動ぎする気配。誰かと問うまでもない、紫の羽織の人だ。その人は眠たそうな半眼で身を起こすと、ふぁあ、と大きな欠伸を一つ。癖っ毛っぽい頭をぐしゃぐしゃと掻き乱して、涙の浮かぶ目を擦る。その双眸は水色みたいな青翠みたいな、森の奥の深い湖を思わせるような色で、そんな色の目の人初めて見たけど、単純に綺麗だな、と感じた。でもその人の頬とか顎とかその辺りはろくに剃刀も当てられていないのか、無精髭がまばらに草地を作っていた。この時点で、もうこの人が男だと確信を持って言える。うん、男だ。男性。ついでにおじさん。
 暫くそうして紫の羽織の人を観察していると、当然だろうけど目が合った。少々垂れ目ながちな双眸は、わたしを捉えると大きく見開かれ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。それが何だか可笑しくて、くすりと笑い声を零せば、それを皮切りにしたかのように彼はがばりと立ち上がった。羽織の下に着ているのはピンクのシャツ。うん、いいセンス。

 切羽詰まった様子の彼はすごい勢いでわたしの肩を掴んで、口を開く。


「目ぇ覚めたの!? ちょ、待ってて、すぐ戻ってくるから!」


 どたどた、と慌ただしく、それでいてどこか軽い足取りで、彼は扉の向こうへ消えていった。ばたん、と強く閉じられる扉の音。
 さて、困った。先刻彼の声を聞いてわたしが分かったことと言えば、彼が相当切羽詰まってたということ、だけ。それだけ、本当にそれだけ。もし、その焦りようで、あの男の言葉が支離滅裂になっていた、というわけでないのならば。


 相当厄介なことになったのかもしれない。

 わたしはもう一回おやすみしたい気分になったけど、結構な時間寝ていたのだろう、眠気の断片すら残っていなかった。



110801


TOPtugi