Mement mori | ナノ

【死に触れた日】


 



 矢を番える指が震えた。何故、どうして、練習ではこんなことなかったのに。駄目だ、狙え。射るんだ、今までたくさん練習してきたじゃないか、何回やっても的の真ん中に当てられるようになったし、動いてるものだってちゃんと追えるようになって、だから震えないでわたしの指。はやく、射ないと、ほら、あの魔物こっちに来てるよ。はは、凄い、早い、あの猪の突進食らったら痛そうだな、痛いのは嫌だから早く狙って射て、正面を向いてこっちに来てるんだから狙うのは簡単でしょう、「みうちゃん!!」ごめんレイヴン、せっかくたくさん教えてもらったのに、駄目な弟子だねわたし。ごめんなさい。

 衝撃。

 暗転。









「目、覚めた?」

 目を開けた。ぼんやりと虚空を眺めていると、どこからかレイヴンの声が聞こえた。暗い、肌寒い、頬を撫でる風。身体を起こすとここが外である事を知る。大きな木の根元。レイヴンは傍で焚火の薪を弄っているところだった。
 ゆっくり身体を起こすと何だか変な感じがした。身体がぎしぎしと軋んでいるような、「まだ寝てた方がいいよ」とレイヴンに言われて、思い出す。ああわたし、なんてことしたんだ。

 初めての実戦。身体が、動かなかった。いや違うそうじゃない、動けた、矢を引き抜くことは出来たし武器を構えることだって出来た。それなのに、番えた矢を放つことが出来なかった。わたしが放った一本の矢が、あの生き物に突き刺さって、その命を奪うのかと思うと、怖くて、それはもう恐ろしくて、動けなくなったんだ。
 全然覚悟が足りなかった。両手で顔を覆う。「ごめん、なさい」情けない、最悪だ。もう決めたと思ってたのに。強くなろうって誓ったのに。

「ごめんなさい」

 勝手に零れ落ちる謝罪。唇を噛み締めた。情けない。わたしには他の生き物の命を奪う覚悟が無いなんて、何を今更善人ぶってるの。だってそうじゃん、今までに一度だって他の生物を殺したことがないなんて言えない。血を吸いにやってきた蚊を叩いたことは何度もあるし、道を歩いてる時に気付かず踏み潰した蟻の数なんてわたしは知らない。ほら、殺してるじゃないか、わたし。それなら何であの猪を、殺せないの?
 虫以外の生き物の死に触れたことが無いとも言わない、鳥の死骸も、轢かれた猫も、亡くなった人間も、見たことがある。わたしが普段食べていたのは何だ、死んだ動物の肉だった。ただわたしがそうしたことが無いというだけ。手を、下したことが、ないだけ。

 どうして出来ないの。聖人君子でも気取っているの。今更そんなこと、馬鹿じゃないの。
 ほら、あるでしょ、誰かを殺してやりたいって思ったこと。その気持ちを思い出してやれば簡単に射られるんじゃないかな。

(じぶんをころそうとしたくせに)


「みうちゃんは魔物を殺したこと、ないんだ」

「……ん」

 レイヴンの静かな問いかけに頷く。わたしが元いた世界では魔物なんていない。動物ならいくらでもいるし、をれを殺すのを仕事にしている人もいるけど、わたしは違う。既に死んで切り分けられた肉を店で買って料理して食べるだけ。自分の手は、汚さない。

「そりゃあ怖いわよね、初めてだったら皆そんなもんよ」

 両手で顔を覆ったままのわたしに対し、レイヴンはまるで仕方が無いことだとでも言うかのようにへらりと笑った。それが無性に悔しくて、こわくて。
 いつかわたしが見捨てられるんじゃないかって。

「………なんで」

「ん、なあに?」

「なんで、怒る、しないの」

 そしてその時も、そんな風に笑ってるんじゃないかって。そう思ったら、怖かった。変な話だよね、わたしはレイヴンにとってそこまで重要な存在じゃないのにさ、見捨てられるかもなんて、被害妄想でしかないよ。
 だからレイヴン怒ってよ、駄目な弟子だって、魔物一匹すら殺せない役立たずだって怒ってよ。それともわたし、怒る価値すらないくらい駄目な奴なのかな、そうかもね、きっとそう。
 喉の奥が熱くなって震えた。優しくしないでよ、優しくされたら後が怖いんだ、いつそれが終わるのかって考えると、眠れないくらい怖くなるんだよ。わがままだなわたし、レイヴンはたくさんのものをくれたのに、求めてばかり。何一つ返せやしないのに。欲張り、だな。

「―――怒んないわよ」

「その価値、ないから?」

「そんなんじゃないって。だって普通のことよ、誰だって生き物を殺すのは怖いに決まってる。ただ俺様たちはそういう仕事を何回も重ねるうちに慣れちゃって、どっちかというと殺すことより…殺されることの方が怖くなるんじゃないかな。だから、戦うの。ほら、そうしないと自分の大切なものを守れないかもしれないでしょ?」

「守る、……守るのために、戦うことをするのか?」

「ま、少なくともドンはそうなんじゃない、まったく元気なじいさんだわ」

 守るために、戦う。そう、レイヴンの言うとおりだ、わたしが戦う力が欲しいと思ったのは他の生き物を害したいからじゃなくて、守りたいと思ったものを守るためだった。その思い自体が独り善がりで、目的を果たすには少なからず自分以外の誰かを害さなければ成し得ない、今更じゃないかそんなこと。ひとつも犠牲を出さずに叶えられる願いなんて、あるわけがない。そんなもの、ないのに。
 顔を覆っていた手を外す。大丈夫、泣いてない。酷い顔をしていたかもしれないけれど。
 レイヴンの手が頭の上に乗せられた。わしゃわしゃと撫でて、彼の表情が見えない。

「でも、みうちゃんは他の生き物の死を悲しむ気持ちを忘れられないと思う。優しいからね」

「…褒めても出すせない、何も」

 そんなの買被りだよ、レイヴン。でも、次に弓を構えたその時は、この手は震えない。そんな気がした。








 矢筒から引き抜いた矢を番える。「行ったぜみうちゃん!」すごい勢いで突進してくる猪。弓弦を引く。狙いは真っ直ぐ、猪の頭部。手も指も震えない。狙いも溜めも良し、そのまま、射る!
 一直線に放たれた矢はその頭部に突き刺さり、耳障りな声が上がる。だけど突進の勢いは止まらなくて、わたしは咄嗟に弓から剣に切り替えた。そしてその小剣を、振り上げて、タイミングを見計らい、切り払う。

 どしゅ、と嫌な音がした。最初は抵抗があったけど一瞬のことで、後は驚くほど簡単に刃が進んだ。びちゃびちゃ、生温かい液体が降りかかる。断末魔は耳の奥にこびり付いたように離れなかった。

 胃がひっくり返るような感覚がして、思わず地面に膝を付く。ぴちゃ、と血が跳ねて、飛沫が服を彩った。左手に握ったままの剣から伝わったあの生き物を切り裂く感触がまだ鮮明に残っている。震えそうになるけど、右手でそれを抑え込んで、震えが出ないように努めた。
 傍らで横たわる魔物の骸はもう動かない。まだ体温を残している血液も直に冷たくなるだろう。吐き気がした。

「みうちゃん、大丈夫、立てる?」

「……平気」

 強がってそう答えて立とうとしたけど足元がふらついた。はは、これじゃあかっこつかないや。でも何とか立ち上がってレイヴンを見上げると、彼はばっと両手を広げて言った。

「初めての魔物討伐記念! おっさんの胸に飛び込んどいで!」

 底抜けに明るく笑って見せる彼がなんだかおかしくてぷっと吹き出すと、身体の力が抜けて前に倒れ込んだ。そこには両手を広げたままのレイヴンがいたから丁度良く受け止められて、紫色に包まれた。ありがとうレイヴン、まだまだ覚悟は足りないみたいだけど、あなたのお陰で切欠が出来たような気がするよ。口に出すのは気恥ずかしかったから、彼の胸に額を押しつけて、その気持ちの代わりにした。


110809


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