Mement mori | ナノ

【気の利く男】


 




 目が覚める。何だか嫌な夢を見たような気がしたけど、窓から見える黄昏を見ているうちにぼやけたそれも完全に忘れてしまった。下腹部に違和感がある。わたしの身体が受け付けなくなった“痛み”とはまた違う、鈍い重み。
 サッと血の気が引いて寝台から飛び起きる。シーツを汚すことはしていなかったものの、そろそろやばい。全く意識していなかった、大いなる環境の変化の所為か暫くその日は来なかったのだ。

 どうしよう。誰に相談すればいい。ギルドは元々男所帯も同然だし、ユニオンの本部内で女性の姿を見かけたことなどほとんどない。どうしよう。自然と溜息が溢れた。
 身体が重い、主に腹。右手は自然と下腹部に添えられて、気分は陰鬱になっていく。それでも身体に染みついた習慣というのは恐ろしいもので、腹に添えられていないもう片手は小テーブルの上にあった変形弓に伸ばされていた。
 今日はレイヴンに稽古をつけてもらえる貴重な日。彼はふらふらしているように見えるけどあれでも天を射る矢の幹部、ドンの右腕で、日がな一日酒場に入り浸っているわけではないのだ。そう、見えるけど。
 わたしは弓を片手に部屋を後にする。考えるのは後回しだ、今は取りあえずこの武器をもっと上手く使いこなせるようになることだけ考えなければ。

 そうは思いつつも、目は勝手に女性が歩いていないか探している。しかし見当たらず、そもそも名前も知らない女性に何からどう説明すればいいものなのか。こういう時、女の身体が恨めしい。意思に関係なく子を産む準備を始め、そしてそれが無いと分かると血を吐き出していく身体。そんな予定わたしにはないのに、どんなにそう思っても生理というのは来てしまうのだ。

 途中、ハリーと擦れ違った。「大丈夫か、顔色悪いぞ?」わたしは曖昧に笑って返し、足早に彼の傍を離れた。足元がふらつくが間違っても男の人にだけは相談したくない、嫌いとかそういう意味じゃなく、まぁ、この気持ちは多分女にしか分からないだろう。



 わたしが一人で鍛錬する時にも使っている広場に、既にレイヴンの姿はあった。いつもは若干遅れてくるくせに、こういう日に限ってどうして早いのだろう。彼にとっては云われのない不満を心の中でぶつけながら、わたしは小走りも出来ずゆっくりと歩いていった。まだ出血はしていないようだけど、いつ始まってもおかしくない。腹が重い、それだけで気分が落ちて行くようだった。
 それを顔に出さないよう繕いながら、夕日に向かって伸びをしていたレイヴンに声をかける。

「レイヴン、遅れた。すまねえ」

「ん、みうちゃ……あー…っと」

 わたしの顔を見るなり、レイヴンは目を丸くした。どうかしたのかと首を傾げながら、がしがしと自身の頭を掻き乱す彼の顔を凝視する。斜め上に泳いだ視線は暫く宙を彷徨った後、「よしっ」という何かの決心めいた気合と共にわたしに戻ってきた。

 途端に、レイヴンがいなくなる。いやそうじゃない、レイヴンはわたしのすぐ傍で膝を折ったから視界から消えただけ。わたしの足元に跪くようにしている彼が何をするのかと思えば、「わ、わっ!?」文字通り足元を掬われた。
 膝の裏に回された腕が掬い上げるようにして下半身を浮かせ、後ろに倒れそうになった所を彼のもう片方の腕が受け止める。お姫様抱っこ。プリンセスホールド。レイヴンにこうされるのは二度目だ、彼はそこまで身長が高くないんだけど、力があるのは分かる。わたしを抱き上げても、少しだってよろめいたりしないのだ。

 急に浮き上がった感覚に身体がついていかず、下腹部の違和感が強くなる。どうしよう。そもそも何でレイヴンはわたしを持ち上げたのか、鍛錬はどうするの。

「レイ、ヴン?」

「いーから。大人しくしてなさい」

 レイヴンは人目を避けるようにして酒場、天を射る重星の裏口の扉を叩いた。出てきたのはニナさん。わたしを連れてわざわざ裏口までやってきてニナさんに用事があるのかと思えば、レイヴンは気遣わしげにわたしをそっと下ろし、ぽんぽんと優しく肩を叩いた。こちらを見下ろすその青翠が優しくて、胸の奥が熱くなった。レイヴンは気付いてるんだ。わたしが何かを言おうと口を開くよりも先に、「今日は訓練お休みねー」早口でそう言って、レイヴンはすたこらさっさと軽快な足取りで表通りの方へ駆けていった。

 あの人、普段はあんなに胡散臭くて、女たらしで、お酒が好きで、大概適当で、言動も行動もおちゃらけてて駄目な男みたいに振る舞っているくせに。
 俯きがちなわたしに、ニナさんは少し屈んで覗き込むようにしながら優しい笑みで尋ねてきた。

「どうかしたのかい、みうちゃん」

「その、…実は」

 悔しいけど、レイヴンの気遣いが凄く嬉しい。わたしは胸から目頭に熱が移っていくのを堪えながら、ニナさんに事情を話した。








「レイヴン、」

「あ、みうちゃん……痛くない、平気?」

 本部の彼の部屋の傍で姿を見つけ、その問いかけにわたしはこくりと頷く。いたくない。いたくないよ。それはわたしの身体が痛みを跳ね退けるからだけじゃなくて、どっかの誰かさんが何でもないようにわたしのそれに気付いて突拍子もなさ過ぎでいっそ気付けないかもしれないような優しさを見せてくれたからだよ、気遣わしげな視線も核心に触れない心配そうな声も。ばか、ばか。でも、

「あり、がと」

 俯いていたから彼がどんな顔をしていたのかは見えない。しかし頭に乗せられた手の重さと温度がいつも通りすぎて、安心した。黙ったままわたしを見下ろして、だけどその手は何度もわたしの頭を優しく撫でた。

 女性限定で博愛主義、を自称するレイヴンは女たらしの噂がついて回って自身でもそれを否定しなくて、事実街中にレイヴンと親しい女性がいるといっても過言ではない(本人曰く手は出してないそうだけど)。そんな女性たちよりもわたしは彼の傍で過ごしていて、でもあんな風に言い寄られたことはなくて、そりゃまあ彼女たちのようにわたしが魅力的かと問われればそうでもないし何よりわたしはレイヴンの弟子みたいなもの。女として見られなくても仕方ない、って思ってた。
 でも、レイヴンは、ちゃんと見ててくれたみたい。それが素直に嬉しくて、今まで見守ってくれていたレイヴンに気付けないでいたのが申し訳なくて、伸びた前髪を掴んで下の方に引っ張って顔を隠しながら、もう一度押し殺した声で「ありがとう」囁いた。

「どういたしまして」

 耳元から返って来たそれと同時に、落ちつく温もりに包み込まれる。温かい。そうだ、お腹、冷やさないようにしなきゃ。この期間特有の人肌恋しさの所為か、わたしはレイヴンの体温に擦り寄って目を閉じた。せめて落ちつかない心が静まるまでは、このままでいさせてほしい、なんて。そんな我儘な気持ち、吐き出される血と一緒にどこかへ行ってしまえばいいのにね。



110808


maeTOPtugi