Mement mori | ナノ

【動き出す】


 




 時が過ぎるのは中々に早いもので、わたしがこのテルカ・リュミレースで暮らし始めてから一年が過ぎていた。
 わたしは相変わらず天を射る矢で働いているしドンの肩揉みをしているしハリーとは兄妹みたいな感じだしレイヴンの部下だしおかしな武器を使っているし治癒術は効かないし痛みは無いし元の世界に戻る気配もない。いや、最後の件は、半ば確信を持って言える、生まれ故郷である日本に生きて帰ることは二度とないのだと。理由は、思い出すと億劫になるからあまり考えたくない。

 とにかく、変わったカレンダーを目にする度、自分がこの世界に馴染んだなぁと実感する。あ、でも、人魔戦争が終わって十周年記念という日を、街の人たちと同じテンションで喜ぶことができなかった。わたしは当事者じゃないから、ね。聞いた限りの話では酷い戦争だったらしい、いくつかの街も滅ぼされて人がたくさん、しんで。不謹慎だけど、わたしがその時代のこの世界に飛ばされなくてよかった、って思った。ごめんね、ずるい奴で。


 今日もいつも通り一仕事終えて、気が向いたのでレイヴンと一緒に天を射る重星で一杯ひっかけている所だ。まぁわたしの場合はミルクなんだけど。初めてここに来た時にわたしの相手をしてくれたあの綺麗なお姉さん(名前はニナさんって言うんだって、名前まで綺麗とかわたしにどうしろと)と他愛のない話をしながらぐいぐいと杯を傾けていくレイヴンの背を眺めていた。
 さて明日はどんな一日にしようかな、また久し振りにレイヴンに稽古つけてもらうのも悪くないな、そんなことを考えていたら、不意にレイヴンに近付いてくる見知らぬ男。彼は一瞬だけレイヴンの耳元に顔を寄せて、すぐにどこかへ去って行った。何かを囁いたのだろうか。
 直後レイヴンは勢いよく立ちあがって、よろけもせず一直線にこちらに向かってきた。その表情はどこか緊迫しているように見える。わたしが立ち上がり何かを言うより先に彼が口を開いた。

「みうちゃん、俺様ちょっと急用が出来たから。暫く戻れないかもって、ドンに伝えといて」

「あ、ああ」

「じゃ、おっさんが帰ってくるまでいい子で待ってるのよ!」

 言うが早いか、レイヴンは一秒すらも惜しむかのように酒場を出て行った。しっかりわたしの手には彼が飲んだ酒代と思しきガルドが握らされていて、その辺は流石だと思う。もうすぐ陽が落ちるけど、確か今日はあと一つだけトリム港行きの隊商があったはず、多分彼はそれに加わるつもりだ。

 今までも、何度かこういうことがあった。レイヴンが遠出する時、大抵わたしも連れて行ってもらえるんだけど、それとなくレイヴンがついてきてはいけないと言う場合が。その度にわたしは少し不安になる、今回も例に漏れず不安が胸をもやもやさせた。
 最近は街の傍まで魔物がやってくることも増えてきたし、近いうちに何か良くないことが起きるような気がするのだ。それが何か、はっきりとはわからないけれど。

「レイヴンが心配かい?」

「レイヴンは…ただじゃ死なねぇやつだって、ドンは言った」

「ふふ、そうね。だったら、待っててやりなさい、あの女たらしを」

「ニナさん……」



 何処へ行くのかもいつ帰ってくるかも分からない。ただ、暫く帰れないかも、早口に告げられた情報はそれだけ。いい子に待ってろ、はいいか、言わなくて。
 ドンに伝えたら、彼は「そうか」と言ったきり数秒間難しい顔をしていたけど、わたしが見ている事に気付くと、にっと笑って頭の上に手を乗せた。ぐしゃぐしゃに掻きまわされて、結局こちらで一度も切っていない髪が視界を疎らに遮る。

「んな顔すんな。あいつのことだ、すぐに帰ってくる」

「うん…じいさんが言うなら、そう」

「だろう。そんなことよりみう、最近肩が凝っていけねぇ、また揉んでくれねえか。ったく、年は取りたくないもんだぜ、なぁ」

「お安いご用よ!」

 傍にあった椅子を引き寄せて飛び乗り、ドンの肩を揉む。最近ドンも忙しかったみたいで、暫くこうする機会もなかったからすごく久し振りに感じた。
 たくさんのものを背負うドンの背中は大きく、肩は厚く、そして硬い。その背に負うものがどれだけの重さか、わたしには想像もつかないけど、その荷物の中のひとつは紛れもないわたし。自負しているからこそ、強い力で凝り固まったドンの肩を揉み解していった。わたしがドンのためにできることなんて限られてるのだから、それを精一杯やりたいのだ。

「みうよぉ」

「なに、じいさん」

「こうしてると常々思う。…おめぇも、もう俺の孫だな」

「……!」

 しみじみと、普段よりもいくらか優しい声音で言うドン。それが嬉しくて嬉しくて、わたしは思わずその大きすぎる背中に飛びついた。身体を通して響く豪快な笑い声も、今は全てが心地いい。あいしてるぜ、て言おうとしたんだけど、以前ハリーに「あい」の安売りはよくないって言われたのを思い出したから堪えて、口の中だけで何度も大好きを呟いた。本当に、だいすき、ドン、だいすき。ドンとしての厳しさもお祖父ちゃんみたいな優しい眼差しも、全部、だいすき。



110806


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