Mement mori | ナノ

【摘み取れない芽】


 



 主不在の部屋に俺は音も無く踏み入る。扉を叩いて返事がない時点で分かっていた、恐らく今頃ハリーか誰かと任務をこなしているのだろう。
 ふと気になった方へ視線を滑らせると、茶色く枯れた花束が目に入る。毎日欠かさず水を変えていたのを俺は知っているが、あれだけ長い間鮮やかな紅を保ったのならこの花も大往生、といったところだろう。花が枯れる、それは仕方がないことなのに、日に日に萎びて行くそれを見て彼女は顔を曇らせていた。かつて紅色をしていたことを偲ばせる花にそっと手を伸べて、掴む。微かな乾いた音を立てて砕けて床に散った。
 いつか誰かの見た風景が重なる。違う、あれは誰でもない、少なくとも俺じゃない。それにこの部屋の主である少女はまだ生きている。生きて、俺が教えた戦い方で、魔物相手に矢を射て剣を振るっているに違いない。

 監視を言い渡された少女に俺が手ずから武器を与えた理由、そして戦い方を教えた理由は、言葉にするのも憚られるくらい身勝手なもの。俺が最悪のパターンとして想定している“その時”が来たとして、彼女がそれに少しでも抗えるように。あわよくば命を散らさず生き延びることができるように。恐らく“その時”手を下すであろう確率が最も高い俺がそんな悪足掻きの仕方を見つけてしまうなんて、笑い話にも程がある。
 俺が足掻いてどうなるというのだ、どうにもならない。どう足掻いた所で“その時”が来てしまえば俺は迷わず手を下すだろうし、今後どう彼女が努力してもその実力差は埋まらない。結果は同じ、変わりはしない。
 大体、俺は何故そんな悪足掻きをしてしまったのだろう、力が欲しいと言ったその時点で駄目だと首を横に振って少々強引にでも釘を刺しておけばよかったものを。初めより伸びた髪を揺らす後ろ姿を誰かと重ねたのか。だからわざわざ扱いの面倒な武器を与えたのか(それでも初期から扱い方の才能の片鱗は見せていた)。いや、いずれにしろ結果が変わらないのであれば悪足掻きにすら匹敵しない。俺の行動は全くの無意味だ。意味など成さない、いずれあの笑顔は俺のこの手で掻き消されることになるのだ。

 口の端が微かに痙攣した。俺は笑おうとしているのか。何故、どうして?
 床に散った花弁の破片が目障りで、それらを靴の裏でぐしゃりと踏み躙る。花弁の苦痛の叫びなど聞こえるはずもないのに左胸が小さく疼いた。苛立たしい。この花を見ていると苛々してくる、何故、ああそうか誰かさんの後姿が嫌でも瞼の裏に蘇ってくるからだ。
 左胸を抑え服の上から掻き毟る。もう何も考えたくない。違う、考えなくていいのだ俺は、今まで通り、何も考えずに動けばいい。こちらではレイヴン、天を射る矢の道化た幹部として。あちらではシュヴァーン・オルトレイン、平民出身で人魔戦争を生き延びた英雄隊長主席として。シュヴァーンを前提として、二つの俺に分かれ振る舞えばいい。
 しかし結局はひとつ。俺という道具は、アレクセイの持ち物に過ぎないのだから。

 粉々になった花弁を一瞥して、部屋を後にする。胸の疼きはもう消えていた。
 そして俺の顔には、仮面のように張りつけられた“レイヴン”としての道化た笑み。



 なのに、消えないんだ。俺が教えた言葉を馬鹿正直に使って、精一杯伝えようとするあの顔が、消えてくれない。踏み込まれる前に振り払うことだっていくらでもできるのに、何で俺は、それを出来ずにいるのか。
 なぁ、今の俺を見たら、あんたは笑うかな。誰かさんの心に巣食って未だに住みついたままでいる、あんたなら、俺を馬鹿だと笑うか――?




110806


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