Mement mori | ナノ

【エフミドの紅い花】


 



「す………っげぇ」

「ね、絶景でしょ」


 ハルルからノール港に向かう途中にある、エフミドの丘と呼ばれる丘の上。街道は左右を急な丘に挟まれた谷底のような所を通っていて、でもレイヴンが先導してやってきたのは海側の丘。彼曰く、知る人ぞ知る素晴らしい景観が一望できる、騙されたと思ってついておいで、とのことだった。
 何故知る人ぞ知る、なのかといえば、丘とはいえ登るにはなかなか骨が折れる地形である上に魔物が出没するからだ。時折現れる魔物を片付けながら丘を登るのは大変だったけど、この景色を見た瞬間疲れなんてどっかに吹っ飛んだ。すごい、綺麗。

 丘とはいっても海に面した側は垂直の断崖絶壁で、だからこそ何にも遮られずに突然開けた視界に圧倒された。
 運のいい事に魔物の気配もないので、わたしは遠慮なく崖の傍までいって潮風を思い切り吸い込んだ。気持ちいい。船から見る海とはまた違って、何か上手く言えないけど取りあえず綺麗。
 空も海も青い。真ん中の一本の線で上下に切り分けられていて、どこまで行ってもそのふたつの青が交わることがないのだろう。美しさだけじゃなく何か感じるものがあるのか、どきどきする。それが何かはわからないけど、どきどき。

「ちょいとここらで休憩しましょうか、おっさん疲れちゃった」

 レイヴンはすぐ傍にあった大きめの石に腰かけてそう言う。嘘ばっかり、景色に見惚れてたわたしに気を使ってくれたくせに。
 口には出さず、お言葉に甘えることにしてわたしはもう一歩前に出る。切り立った崖のぎりぎりに爪先があった。「落っこちんじゃないわよ」背後からのレイヴンの声に頷いて、海を眺めた。視線を下へ下へと下ろしていくと、今自分が立っている場所が眩暈を起こしかねない高さであることを改めて知る。

 そろりと片足を差し出した。その下には海。

「レイヴン」

「何だいお嬢ちゃん」

「ここで落ちることしたら、しぬ、ね」

「 、そう、ね。気を付けなさい」

 どうしてそんなことを口走ったのか、自分でも定かではない。ただ、不意にそう思って、返って来たレイヴンの声はどこか掠れていた。よくないこと、言ったかも。
 差し出していた足を戻し地につける。大丈夫、わたしはしなない、大丈夫。だって、だってね。

「死ぬのは、痛いんだ。すげぇ、痛ぇ」

「………」

「痛いのは、やだな」

 何言ってるんだろう、わたし。流石に沈黙が気まずくなって、でもレイヴンの方を振り向く勇気も無くて、足の進むままに歩いてみる。何かを見つけた。丘の方、丁度日陰になっている辺りに紅いものがある。特に他に興味を引くものが無かったので、ふらふらと吸い寄せられるように紅い何かの元へ寄ってみた。花だった。紅色の細長い花。わたしは蜜を求める虫か。
 膝をついて観察してみると、あ、この花、前にハリーがくれた植物図鑑に載ってた。名前は何て言ったっけ、ええと、確か―――思い出した。

「どったのお嬢ちゃん……あ、その花って、」

「キルタンサス」

「え」

「キルタンサスの花」

 一輪だけ咲く紅いそれに、顔を寄せて匂いを嗅いでみる。爽やかで甘い、いい香りだ。綺麗だけど摘んだりするのは勿体ないのでどうもしない、ただ、暫くこの花を見ていたい。キルタンサス、うん、名前も綺麗。

 後ろから声をかけてきたきり黙ってしまったレイヴンが気になって振り向くと、彼は青翠の双眸を見開いてわたしを見下ろしていた。どこか驚いたような表情で見られる要因が分からず、訝しみながら見上げ返した。暫く言葉を失っていたレイヴンだったけど、やがて我に返ったらしい彼が場を取り繕うように頬を掻く。
 いつか感じた違和感と同じ。レイヴンの様子がいつもと違うような、気がする。

「レイヴン…?」

「あ、いや。その…何でその花の名前知ってんのかな、って」

「…ハリーがくれた図鑑。キルタンサス、載ってた」

「そ、う。勉強熱心なのね、相変わらず」

「レイヴン、ねぇ」

「さて、と。そろそろ休憩も終わりにしてノール港に向かうとしますか」

「レイヴン!」

 この前の時は、レイヴンはさっさと行っちゃって引き止める隙もなかった。でも今回は違う。いつ魔物が現れるか分からないこの場所で、レイヴンはわたしを置いて先に進んで行ったりすることができないのだ。その状況を利用するなんて汚いとは思うけど、今を逃してしまったら後悔する、わたしの中で何かがそう叫んでいるんだ。
 わかってる。こちらを見るレイヴンが、それ以上何も言わないでほしいって表情をしてることくらい分かってる、踏み込まれたくないって空気を纏ってることだって気付いてる。だけどもう、見て見ぬふりなんてしたくない、それで嫌われてしまったとしても、いいんだ、いいの。

「わたし…レイヴンが誰でもいい、どんな昔あってもいい。知ってないことのが多いでも、黙ってて構わねえ。でも、でもな、わたしはレイヴンがいい。レイヴンがいる場所に帰りたい。そこがわたしの、居場所だ」

 レイヴンのことは何も知らない。胡散臭いってことと、女たらしってこと、あとそれなりに強くて面倒見がいい人だってことくらいしか知らないさ。でも、わたしは、それを知っている。そんなレイヴンを知っている。わたしはわたしの知るレイヴンを、もちろん都合よく解釈してる所もあるかもしれないけど、好きなんだ。帰る場所はダングレスト。ドンがいてハリーがいて、レイヴンがいてくれる場所。彼がいてくれないとそこはわたしの居場所じゃない、なんて、欲張りかもだけど。

「えと、だからその、オレ、レイヴンが……あいしてるぜ!」

「みう……ちゃん」

 上手く言えなくて、結局は彼自身に教わった表現に逃げてしまった。つい一人称も戻ってしまったんだけど気にしないことにする。伝わったかどうかは不明だけど、自分が言った言葉に後悔はしたくない。
 複雑そうなレイヴンの表情から何かを読み取ることは出来ない、やっぱり嫌われたかな。先刻までの勢いはどこへやら、わたしは逃げるように立ち上がって丘を降りる道へ向かう。

「みうちゃん」

 呼び止められた。弱々しい、声だった。

「ありがと、ね」

 泣きそうな笑顔で零れ落ちた感謝の言葉に、わたしは返すものが何もないことに気付く。静かな波の音が耳に痛い。キルタンサスが潮風に吹かれ寂しげに揺れていた。
 どういたしましても言えず、ダングレストに着くまで気まずい空気のまま時間が過ぎていった。


110805


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