Mement mori | ナノ

【やばいだらけの世界】


 


 この世界に来てからというものの、やばい、って思う瞬間が非常に多くなった気がする。そりゃ日本にいた時だって割とあったさ、テスト近いやばいとかレポート期限明日だやばいとか手が滑って皿落としそうだやばいとか冬に氷張ってんの気付かず滑って転ぶやばいとか果ては幼い頃おねしょしてお母さんに怒られるやばいとか、数えたらきりないくらいのやばいがあった。
 でもここに来てから感じるやばいは、そんなものとは比にならないくらいのやばさ。だってどれもがわたしにとって生命の危機に関わるような大きさのやばい、ああ何でこんなやばいのこの世界。
 でもこれわたしあまり悪くないんじゃないかな、だってちょっと街並みに見惚れて突っ立ったら歩いてきた男の人を避け切れずにぶつかって尻もちついて、ぶつかったことを理解できたから「すまねぇ」って謝った、謝ったのに、さ。

「いい度胸じゃねえか、坊主」

 ドンほどではないけど大きな手がわたしの腕を鷲掴みにして無理やり立たされた、声音は苛立っているよう。お世辞にも柄がいいとは言えない男の腰にはナイフ、更にその後ろには強面のおじさんだかお兄さんだかが二人ほど。ね、やばいでしょ。
 わたしはまだまだ勉強中の身だからこの世界の常識ってやつをまだまだ知らない。でもきっと恐らく銃刀法とかはない。人を殺したら罪になるか。それは分からない。けど、武器をこうして持ち歩けるんだから、人を殺すことなんて造作もないこと。

 声を上げたくても、喉が引き攣って何も言えなかった。
 腕を引かれる力が強すぎて、抗えない。あ、お酒の臭い、この人たち酔っ払ってる。どん、と突き飛ばされて硬い壁に背を打ち付けられる。息が詰まった。

 痛みに呻く余裕もなく、恐怖心から俯いた。怒声が降ってくる。せめてその人の顔を見たくなくて俯いたままでいたら、自分の長い前髪がそれらを遮ってくれた。こんな時だけど髪伸びたなぁ、なんてことに気付く。
 現実逃避は長く続かず、急に顎を引っ掴まれて強制的に上を向かされた。お酒臭い呼気がかかって胸がむかむかする、やだ、やめて、触らないで。

「聞いてんのか坊主!」

「あれ、おいこいつ、女じゃねえの」

「ん、マジか」

 むに、と。男の手が無遠慮にわたしの、むね、胸を、鷲掴んで、は、なにこいつ、ふざけてるの。
 初見で女だと見抜けない気持ちは分かるよ、だってわたし髪長いから顔隠れるしハリーのお下がりの服着てるし、お下がりといっても女のわたしより身体が大きいハリーの服だから、大分ゆったりして女性特有の身体の凹凸も隠れるさ(ちなみにわたしの場合可もなく不可もなく無難な体格)。
 でも、でも何なんなのこいつら、女の胸をいきなり掴むとか頭、湧いてるの、そうだ湧いてるこいつらただの酔っ払い―――

「いっ……!」

「ふぅん、顔も悪くねえな」

 顔を隠していた前髪を掴まれる。品定めするような男の顔が腹立たしい。
 唇が歪んで、にたりと下卑た笑みが目前に迫れば、わたしの我慢も限界だった。

 口の中に溜まった唾をぷっと吐き出し男の顔にかけてやる。べちゃ。よし、額に命中。一瞬何があったか分からず呆けていた男は、わたしが先刻されたように、にたりと少なくともいい印象を与えないような笑みを向けてやれば、途端に理解したらしく顔を真赤にした。怒ったみたいだざまぁみろ。
 衝撃。転倒。

「このクソアマが!」

 頭がぐわんぐわん揺れて、ああ殴られたんだ、頬がじんじん熱を持っているのがわかる。痛くないけど。口の中で血の味がした、切れたみたいだ。石畳の床が、冷たい。
 ここでさめざめと泣くような女らしさなどわたしは御免だ。ぺ、と赤いそれを吐き出して、男を睨みあげる。大丈夫、怖くない、わたしを襲った魔物に比べたら全然。怖くてもここで屈したくない、こんな奴らに。


「てめぇらなんかくたばれうせろ。汚い面、見せんじゃねぇ」

 今まで覚えた言葉を精一杯組み立てて、罵る。伝わっただろうかと窺えば、よし上手くいったみたいだ男たちは怒ってる。怒って武器に手をかける奴もいる、あ、これほんとにやばいんじゃないか。
 でもここまで啖呵切ったんだし、今更謝るなんてしたくない、それにほら、わたし、痛いの感じないし、大丈夫、怖くない。だいじょうぶ。

「この―――!!」


「はぁい、そこまでね」

 カッ、カッ。

 石床に二本の矢が刺さって、聞き覚えのある声がどこからか降ってくる―――と思ったら、声の持ち主が降って来た。紫の背中がわたしと男たちの間を隔てる、レイヴン、柄じゃないんじゃないの、そんなかっこいい登場のし方なんて。

「誰だテメェ」

「およ。おたくら、天を射る矢のレイヴン様をご存知ないとは。とんだおのぼりさんねー」

「天を射る矢……!?」

 レイヴンの背に遮られて見えないけど、男たちの顔色が変わったのを感じる。やはりドン・ホワイトホースの威光はダングレスト中に轟いてるわけか。

「流石にドンの名前は知ってるってわけ。で、どうする? 一人の女を賭けて決闘! みたいな男なら一度は憧れる展開に突入してみる?」

「くっ……いくぞ、テメェら」

 レイヴンのおちゃらけた挑発、のようなものに、彼らは乗らない。
 わたしはレイヴンが戦っているところを見たことがないけど、触れた手の武骨さも、わたしの突進を軽々と受け止める逞しさも知っている。ギルドの幹部、ドンに信用されてる、ってことは少なくとも、彼は、強い。「あ、そうそう」足早に去っていく男たちの背に思い出したようにレイヴンが声を投げかける。
 どうしてだろう。背を向けている彼が、いつも通り軽薄な笑みを浮かべている事など容易に想像できるのに。

「次この子に手ぇ出したら、さっくり殺しちゃうわよ」

 そう言ったレイヴンの声は、氷よりも、冷たく感じた。


110804


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