Mement mori | ナノ

【「すき」】


 


「ハリー」

「ハリーさん、だ」

「ハリー、さん」

「そうだ」

「よし、ハリー」

「おい」

 ハリーは見た感じ歳も結構近いみたいで、簡単に打ち解けられた。もちろんわたしの言葉は拙いけど、知っている中の少ない言葉でも、ハリーはそれをちゃんと掬って理解してくれようとしている。ちょっとぶっきら棒ぽいところもあるけど、根は優しい人。
 多分わたしの運がいいだけなんだろうけど、ここの人たちはみんな、いい人だ。ドンもレイヴンもハリーも。お陰さまで怪我も大体治って、階段を一人で支えなしに歩けるところまで回復しました。食欲も人並みに戻ってきて、お粥以外の食べ物も食べられるようになった。但しやはり痛みは、戻らない。



 何だかんだやっているうちに、わたしがここに来てから一カ月が経った。相変わらずしっかりした言葉は使えず安定しないし外出は出来ないけど、ハリーが、カレンダーを指してわたしが運び込まれた日と今日の日付を教えてくれて、もうそんなに時間が経ったのか、と驚く。ダングレストは夕方と夜の空ばかりだから空の色で時間を計るのは難しい。でも最近漸く慣れてきた所だ、一日の始まりに自然と目を覚ますことは出来るようになったのだからこれは大きな進歩。
 そうそう、わたしがこの世界に来た時に着ていた服。灰色のパーカーと、藍色のシャツと、黒いスウェット。ぼろぼろになってたけど、ドンの取り計らいで一応取っておいてくれたらしい。これは推測だけどきっとドンはわたしが、普通の人じゃないって、どっかしら気付いてるんだと思う。そうでもなければこんなに過保護にすることもないだろうしね。

 わたしが今着てるのは、ハリーのお下がりだっていう服。ドンがくれたから有難く使わせてもらってるんだけど、それを見たハリーの顔と言ったら。せっかく堪えたのに、隣でレイヴンが爆笑し始めるからわたしもついつい吹き出しちゃったよ。
 悔しかったのか、ハリーは当てつけとでもいわんばかりにわたしに耳を貸せと手招きして、内緒話の形だけどわざとらしく周囲に聞こえるような音量で言った。「なぁ知ってるか、レイヴンってな、オレが昔飼ってたネズミと同じ名前なんだぜ。おかしいだろ」「ちょ、ハリー今それ言う!?」「ねずみ…?」「あれだよ、あれ」言ってハリーが指差したのは、丁度家の隅をちょろちょろと走り去るところだった灰色の鼠。それを理解して、わたしはもう一度笑ってしまった。

「思い出し笑いか?」

「んー……。レイヴンがネズミのこと、思い出す、した」

「えっちょっとまだそれ覚えてたの!?」

「レイヴンさん」

 いつでもどこからともなく現れるレイヴンは、タイミング良くわたしの話を聞いてしまったらしく裏返った声を出す。更に追い打ちとばかりに、わたしがやっと覚えた敬称をつけて呼んでやればまた面食らった表情をしてみせた。
 以前、レイヴンがわたしのことをみう、ちゃん、と呼ぶから、ちゃんっていうのが正しいのかと思ったらそうでもないみたいで、何とも微妙な顔でレイヴンでいいと諭された。けど、今日はハリーがまた別の敬称の付け方を教えてくれたから、それを試したら、うげ、蛙の潰れたような声が出た。どっから出たのそれ。

 傍らではハリーが憮然とした顔で頬杖をついてそっぽを向いている(自分には敬称を付けないわたしがレイヴンには大人しく付けたからかな)。どうしてそんな変な顔してわたしを見下ろしてるのかな、と疑問符を浮かべると、ぽんぽん、普段そうしてくれるように頭を何度か撫でられた。
 嫌いじゃないけど、こども扱いされてるような気がしてならない。わたしがこどもならハリーだって同じくらいなんじゃないの、これ。

「なんだ、レイヴンさん?」

「あーいや、それ。やめてくんない、レイヴンさん、っての」

「……レイヴンちゃん?」

「それもダメっ! ハリーも笑わないの!」

 レイヴンさん、て呼ばれたのが嫌だったのか。試しにまたレイヴンちゃん、と呼んだら横でハリーがぶふって吹き出した。ぶふって。レイヴンがわたしにちゃんをつけて呼んでも周囲は特にそんな反応をしなかったけど、わたしが彼をちゃん付けで呼べばこうなることから、多分“ちゃん”っていうのは女の子につけるような敬称の一種なのかもしれない。後で手帳に書いておかなきゃ、もうすぐ頁無くなりそうだけど。


 その後、わたしとレイヴンとハリーとで他愛のない話をして(むしろレイヴンとハリーがわたしに気を使って色んな話をしてくれただけのような気もする)、先に用事があるとかでハリーは部屋を後にした。気がつけば外はもう暗くなっていて、もうすぐ一日が終わることを知る。
 わたしがお世話になっているこの部屋には、わたしとレイヴンが残った。

 ばたん、と扉の閉まる音。久し振りに訪れる静寂。ふと、レイヴンのことが頭を過る、変な話だ、すぐ傍にいる人の事をこんな風に考えるなんて。
 そういえば、ここ暫くレイヴンの姿を見かけなかった、ほとんど毎日わたしの部屋にふらっとやってきては文字を教えてくれたり、勉強を手伝ってくれたり、わざわざ食事を持ってきたりしてくれるんだけど、一週間くらい。
 ぎるどとやらの仕事でも忙しかったのだろうか、何でもレイヴンは、ぎるど、あるとすくの幹部、つまりえろい人……じゃない、偉い人らしいから。
 レイヴンの事を考えていると、少し前の、ドンとの会話も思い出す。そう、わたしがこの世界で生きようと決めた日の事。『丁度、ここに来たばかりのレイヴンみてぇな面だ』死人みたいな顔してる、わたしが、レイヴンが。果たしてレイヴンがそんな表情をするのだろうか、いつだっておどけて笑いをとったり飄々としていてへらへらしてるこの人が、死人だなんて、わたしには到底思えないし想像も、つかない。

 不意に。

 どこからか、おかしな音が聞こえる気がした。それは耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうな、小さな小さな音。何だろう、元の世界でもここでも今までに聞いたことのない、例えようのない音。


「みうちゃん? どしたの、おっさんの顔に何かついてる?」

「……うぇ? いや……見るた、のか?」

「そりゃもう、熱い視線でじっと見てたわよ」

「すまねぇ」

「いやいや、別にいいんだけどね。あ、そーだ、」

 ごそごそ。レイヴンは自らの懐を探ると、手帳のようなものを取り出した。訂正、まんま手帳を取り出して、わたしに寄越してきた。

「もうそろそろ無くなる頃かと思ってね。ほら、みうちゃん勉強熱心だから」

 へら、と笑って、さも当然のようにまたわたしの頭を撫でる。目の奥がつんとした。優しすぎる、この人、ああもう何でそんなに優しくしてくれるの、レイヴンもドンも、だってわたしもう一カ月もここにいるのに素性の一つも明かさないんだよ、怪しいじゃない、怪しさ丸出しじゃない、なのにこんな、どうしてよくしてくれるの―――

「みうちゃん?」

「レイヴン、」

「なぁに」

「レイヴン、すごい、すき。たくさん、すき」

 他に好意を表す言葉が分からなくて、覚えたけどあまり使いどころのなかった言葉を何回も繰り返した。偶に「ありがと」も織り交ぜて、何度も。
 レイヴンは暫く驚いた顔をして固まっていたけど、一瞬だけ切ないような泣きそうな顔で唇の両端をきゅっと引き上げて、「どういたしまして」と言った。その後の表情は、紫とピンク色に阻まれて見えなかった。抱きしめられたのだ。
 とても温かいけど、音が、聞こえた。何の音だろうって、思ったけど、わたしを抱きしめるレイヴンの腕があまりにも優しくて、気にならなかった。


 やがて彼が部屋からいなくなると、いつの間にかその音は無くなっていた。
 本当の本当に小さな音だったから空耳か何かだったのかもしれないけど。


110802


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