Mement mori | ナノ

【諭す】


 


 死人は何も感じない。嬉しいのも悲しいのも喜びも怒りも辛さも苦しさも楽しさも。でも、わたしは感じた、名前を呼ばれた時嬉しいって、感じたし、この世界で戸惑いも疑問も生まれた、わたしはちゃんと感じてる。生きている、いきてるんだよ、わたし。

 でも、痛みだけがない。自分の怪我、初めてまともに見たんだけど、目を背けたくなるくらい酷いものだった。あの時見た化けもの染みた獣の牙と、爪に、裂かれたんだと漸く実感が湧いた。痛みが無い分それが薄かったのだろう。
 血は、流れるし、温かさも冷たさも感じる、なのに痛みだけが無いなんて、不自然に都合のいい身体。喉の奥から空気が漏れる。自分が笑ったんだと気付くまで、少し時間が要った。

「何て顔してやがる」

 低く呻くようなドスの利いた声が降りかかる。ドンだった。

「かお?」

「死人みてえな面してんぞ」

「しにん、」

「くたばった奴、ってこった」

 くたばった、ていうのは、死んだ、てこと。くたばった奴、は、死んだ人、そっか、しにん。死人。そう言えばいいのか、この世界の言葉では。頭の中ではそんなことばかり考えて整理をつけようとしていたけど、ひく、って喉が引き攣って、一瞬何も言えなかった。この一瞬で、覚えたここでの言語が全部吹っ飛んだ感じ。
 それでもドンの言葉は答えを待たずに続けられた。

「丁度、ここに来たばかりのレイヴンみてぇな面だ」

「レイヴン、……」

 口には出せなくともこの耳は正常に働いてドンの発した言葉を必死に理解しようと頭が働いた。レイヴンみてぇな、つら。レイヴンみたいな顔、ここに、来たばかりの、レイヴンみたいな顔。あ、わたし、ここに来たばかりのレイヴンの顔とか知らないや。というよりレイヴンのこと何も知らないんじゃない、外見と、名前以外。
 そこでふと先刻までの会話を思い返す。ドンは何て言った?
 わたしを見て、何て顔してやがる。くたばった人みたいな顔してる。そう言った。そして、それがここに来たばかりのレイヴンみたいな顔だって言った。

 レイヴンはここに来たばかりの頃、死人みたいな顔してたって、そういうこと?

「みう」

「……?」

「おめえは生きてる。生きてんだよ」

「……あぁ」

 頷くことしかできなかった。ドンは言ってくれた、わたしは、生きてるって。少し不機嫌そうだったけど。きっとわたしみたいな顔をしてる人が嫌いなのだろう。昔の、レイヴンのことを思い出している時も、同じような表情をしていた。
 言ってることが殆ど分からなくても、見ていればわかる。ドンは強い人だ。強く生きている人だ。それは決して楽なことでも簡単なことでもない、相応の苦労をして今の彼があるんじゃないだろうか。わたしには想像もできないような道を歩んできたからこそ、わたしを見て、叱咤したり、苛立ちを覚えることを誰も責めたりはしない。

 わたしがもっと強くないといけない。強く。ここで生きて呼吸して、ドンのお世話になっている間くらいは、強く。

「ドン」

「あ?」

「痛いこと、かんじるしなくても、生きてるのか?」

「たりめぇだろ、馬鹿。ハリーも心配してたぞ」

 ハリー。誰だろう、って首を傾げたら、「孫だ」ドンが答えをくれた。ドンの孫、ハリー。何となく、わたしが階段から落ちた時に駆けつけてくれた金髪のお兄さんだって思った。心配かけてた、心配してくれてたんだ。優しい人だ、怒鳴られた時は意味が分からなくて結構怖い人とか思ってごめんハリー、さん。でも、ドンみたいなおじいちゃんがいて、いいなぁ、なんて。

「ドンは、じいさんか」

「おう」

「おれもじいさんって呼ぶことして、いいか?」

「好きにしろ」

「ありがと。じいさん」

 今まであやふやにしてたけど、決めた。わたし、この世界で生きるよ。言葉も人も法も理も全部が異なるここで、異分子としか言いようのないわたしが生きるのはとてつもなく大変なことになるだろうけど、生きよう。

 せっかく拾ってもらった命なんだ、粗末にしたらドンにもレイヴンにも失礼だよね(襲われて瀕死だったわたしを助けてくれた大きな影と紫色は、いわずもがなだった、ってわけだ)。
 表情に変化でも出たのだろうか、鏡がないからわたしには見えないけど、ドンは満足したように豪快な笑い声をあげて、わたしの頭の上に手を置いた。重い。けど、嫌な気分じゃなかった。


110802


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