Mement mori | ナノ

【ヴァニタス】


 


 服と包帯の上から、爪を立てた。痛みはない。でも翳した手の指先には血が付着してた。笑える。喉が僅かに震えただけで、笑声にはならなかった。

「あの時死ねたら、楽だったかな」

 久し振りに声に出した、故郷の言葉。するりと勝手に零れ落ちたようなものだった。それはわたしの逃避。目を逸らすだけの意味を成さない行為。わたし知ってるんだ、死ぬのって凄く痛いの。いたいんだよ。でもわたし、痛くない。痛くない。いたくない、いたく、ない、こんなの、へんだ、いたくないなんて、だってこれじゃまるで、


 死人みたい。


 ずっと翳したままだった手を、掴む手があった。あまり温かくない手。レイヴン。カーテンが閉まって薄暗い部屋だけど、紫色の羽織は闇に溶けきれず浮いている。まるでレイヴンそのものを表しているよう、だなんて、わたしはレイヴンの事なにも知らないのに。
惰性のまま首を傾けていけば、青翠と目が合う。僅かに揺れたのはわたしか、それとも彼の瞳か、或いは、両方とか。
 怒ってはいない、ようだった。それだけが救い。怒られるのは怖いし嫌いだから、あーよかったわたしここでレイヴンにまで見放されてすてられたりしたらしんじゃうね、あれでもわたしもう、しんで、しんだから痛くないんじゃ、はは、あはは。意味が、わからない。

 おかしいと思ってたんだよ、包帯、まだ全部取れないのに、どこも痛くないし、来てくれるお医者さんは何も教えてくれないし(教えられても理解できたかどうかは危うい)、レイヴン曰く、半死半生の重傷を受けた三日後に目覚めて、立ち歩こうとしてた、とか。

「みうちゃん。おたくはね、よく分からんけど、治癒術がなかなか効かない体質らしいのよ」

「治癒、術……」

 前にもそんなことを言われた。ドンだ、ドンが、教えてくれた。確か、えある、の流れを操って、生命力を活性化させる、それが治癒術、でもえあるっていうのが何かはまだいまいち分かってない。
 でもその治癒術が効きにくいというわたしは、この世界特有の技術で生命力を活性化させることができないから、怪我が治らないのか。そういえば薬も、無い。薬草はあるけど。あ、そか、わたし違う世界の人間だから、この世界の理に縛られないのかもしれない。便利なんだか不便なんだか。

 また考え事かい、今のレイヴンは、ゆっくり喋ってくれるから、何を言っているのか分かる。浅く、頷けば、わたしの手を握るのとは逆の手が、優しく髪を梳いてくれた。温かいような、冷たいような、不思議な手。ドンには遠く及ばないけど、大きな手。

「れ……れいぶん、」

「うん?」

「いたくねぇ……」

「そう、」

「おれ、まるで」

 そこまで言って、はたと気付く。今から言おうとしてる台詞に必要な言葉を、わたしはまだ勉強していない。でも確か、ドンが言うのを聞いてると、くたばる、若しくはくたばった、がそれに該当するはず。そう思い出したものの、わたしの口から零れたのは、やはり使い慣れた故郷の言葉だった。


「しんでるみたい、だね」


 レイヴンには到底理解できない音節で紡がれたそれを、当然彼が解せるはずがない。そりゃ、テルカ・リュミレースの言語と、日本語じゃ、差がありすぎるから、誰もレイヴンを咎められないよ。レイヴンはといえば、きょと、と青翠の瞳を瞬かせて、「何て言ったの?」優しげな声音で聞き返してくる、わたしは少しだけ笑って、なんでもない、と返した。
 しんでるのにいきてるのにしんでる、レイヴン、わたしの心臓、動いてる、音、聞こえる?



 疑問も何もかも面倒になってしまって目を閉じた。だから、わたしは、その後レイヴンがどんな顔をしていたのかなんて知らない。知る必要もないと、思った。





(その時の目が、あまりにも俺のそれとそっくりで。嗚呼、心臓止まるかと思った、なんてね)


110801


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