Mement mori | ナノ

【真赤な、】


 


 例えようのない、酷い音がしたと思う。

 それでも強いて例えるなら、どったんばったんどっかーん、みたいな。いや、決して何かを爆発させたとかそんなんじゃない、恥ずかしい話、落ちたんだ、階段から。この世界に来てからやばいと思うの何度目だっけ。もう数えたくもないや。
 あんなに派手な音を立てたんじゃ気付かれないわけがないよね、今日は丁度部屋の傍に人の気配が無かったものだから、ぬき足差し足忍び足で下に降りてみたいなあって気持ちが芽生えたから、実行に移した。しかし悲しいかな、漸く普通に歩けるようになったと思いこんでたわたしの脚の筋力はまだまだ万全ではなかったようです。そっと、急な階段の一段目に足をかけたら、かくん、と。いっちゃったわけで。あーあーやっちゃったなーやっちゃったよこれ。


 兎にも角にも、あんな派手な音を立てたのが恥ずかしくて、せめて見つかった時に体面だけでも取り繕えるように身体を起こす。きょろきょろ、と誰も見ていないことを確認してから立ち上がろう、と、したんだけど駄目だ誰か来る足音。どたどたどた、って、廊下の向こうから走ってくる人がいた。
 現れたのは、金髪の、少年だか青年。鼻梁を跨いでドンみたいな赤い線が入ってる、きっと関係者だ。やばい、早く立ち上がらないと―――「お前!!」な、なん、何だろう、何かものっそい怒鳴られた気が、するんですけど、なんなの、わたしってそんな、外出たら行けなかったの、だったら何で鍵かけておかないのとかもっと強く止めるべきでしょとか責任転嫁しようとしてるわたし、最低だ。ばか。
 金髪の青年はそれはもう恐ろしい形相で、大股にこっちに近づいてきて、咄嗟に立ち上がる、ふらついた、当然か、階段から落ちた直後なんだし。
 何故か彼はそんなわたしを見て顔色を真青にした。明らかに動揺、して、ああああそんなに出ちゃいけなかったのわたし、ならいいよさっさと部屋に帰ります帰らせて下さい、そう言いたかったけど相手の方から早口に何か捲し立てられて、そうやって早口で言われてもわたし分からないのに。

 ぽかんと呆けていると、金髪の人はわたしにではなく周囲に向かって何か叫んでた。推測だけど、だれか、とか、そんな感じ。叫び声の中にレイヴンの名前も混じってた。
 まるですぐそこで聞いてたんじゃないかってくらいすぐにレイヴンはやってきた。窓から。確かにここ一階だけど、だからこそ扉使おうよ。最初はばりぼりと気だるげに頭を掻いてたレイヴン、だけど、わたしの姿を見るなりその顔を金髪の人と同じ色に染めた。素早い身のこなしで目の前まで来て、あまりの速さに腰が抜ける。ぴちゃ、と小さな水音が聞こえた気がした。それよりも、レイヴンの怖い顔の方が気になって、唇を噛んだ。何、わたし、そんなに悪い事、したの、ああ何だか気が遠くなってくる。

「何があったんだハリー」

「知らねぇ、けど、階段から落ちたんだ!」

「ああもう言わんこっちゃ……っみうちゃん。みうちゃん、聞こえる!?」

「え、ぁ、…ああ」

 傍に、居るんだから、大きな声で怒鳴らなくたって。文句も上手い事言えず、掠れた声で答えて頷くのがいっぱいいっぱい。怖い、な、レイヴン怒ると怖い。瞳の鮮やかな青翠が、今はどこまでも冷たいものに見えて、無意識のうちに手を握る。湿ってる。あれ、床、湿って――?

「あ、か」

 目の高さまで持ってきた手のひらを見て、茫然。あかい、真赤だ。真赤な液体で、手が、手、濡れていた。鉄。鼻孔を差す鉄の臭い。血。けつえき。だれ、の。
 レイヴンと金髪の人が何か話してる。早口だ。聞き取れない。わたしはそれが別の世界の出来事みたいで(ああそうだ元々ここは別の世界)、恐る恐る、手を、自分のお腹のあたり、一番包帯がぐるぐる巻きにされていた、腹部に、触れてみる。

 ぬちゃり。

 濡れた布と、粘着質な、液体の、水音、ああ、紅い。真赤だ。真赤、夕日なんかよりずうっと、真赤。


「みうちゃんっ!!」


 レイヴンの声が、遠く聞こえた。
 ねぇレイヴン。聞こえないだろうけど聞いて。わたしが気を失ったのは、落下の激痛からでも、傷口が開いた出血のショックからでもないんだよ。
 気が付いたんだ、気がついちゃった、気がつかないまま部屋に戻れていたら、よかったのにさ、駄目だな、わたし。


 いたくなかった。
 階段から落ちたのに、酷い傷が開いたのに、全然痛くなかった。



 何もかんじなかった。

 それならいっそこの心も空虚なままでいられたら、どんなによかったろう。
 瞼の裏に焼きついた赤は、夕日か、それともわたし自身の、命の色か。


110801


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