Mement mori | ナノ

【ダングレストにて】


 


「なまえ、なんていう、の?」



 わたしがそう問えば、お爺さんは目を丸くして驚いたようだった。わたしの後ろではレイヴンがしてやったりな笑みを浮かべている。俗に言うどや顔。一本取られた、そういった感じのお爺さんは精一杯見上げていたわたしの前で屈んで(やはりそれでも山みたいな大きさ)、目線を合わせて答えてくれた。

「ドンだ。ドン・ホワイトホース。周囲にゃドンって呼ばれてる」

「ドン、ほわいと、ほーす?」

「ドンでいい」

「どんでいい……?」

「ドン、だ」

「……ドン?」

「おう」

 ドン。そう呼べば、よくできましたとでも言わんばかりにぐりぐりと頭を押さえつけられ、いや、撫でられたんだこれは。あの日この人に背中を叩かれたレイヴンの気持ちが若干分かった気がしないでもない、この力は、凄い。単純に抗えない。身長、縮むかと思った。



 言葉が通じない、というのはかなり不便だったけど、多分きっと恐らくわたしの面倒を見てくれる役割なんだろうレイヴンが、必要最低限の事を教えてくれた。ご飯とか、トイレとか、あと、服とか。ついでにこの場所が、ダングレスト、っていう場所なんだってことも。
 人間の適応能力というのは逞しいもので、わたしも段々ここでの生活に慣れてきた。それもこれも、ある日レイヴンが当然のように持ってきてくれた本と手帳とペンのお陰。そう厚くない本には、この国で使われている文字が載っていた(アルファベットを若干崩して傾けたような形に見える)。わたしは覚えた言葉を、その本よりも厚い手帳に日本語で、ここでの発音を書きこむ。レイヴンがいる時はこの国の文字も教えてもらって、書けるようになるよう努力した。もともと読み書きが好きな方ではあったから、別に苦じゃなかった。

 まだ分からないことは多いというか分からないことだらけなんだけど、簡単な会話なら出来るようになったはず。まぁ、相手の人がゆっくり喋ってくれないと聞き取れないのは否めない。もっと、頑張ろう。








 それにしても、だ。初めから、おかしいと思ってたんだ。あの得体の知れない獣と遭遇したのだって、おかしかったんだよ、だってあんな動物いないもの、わたしの知ってる世界には。聞いたことのない言語。文法は英語に似てるような気がしないでもないけど発音がてんで違う。目にしたことのない文字。いろんな種類の文字を見たけど、こんなのはどこにも見たことがない。ダングレストっていう地名も、全くと言っていいほど耳にしたことがなかった。窓から見える町並みに車もバイクも自転車も無い。馬車、のようなものはあったけど、それを引くのは馬といってもいいものかどうか。
 結論を弾き出すまで、葛藤も絶望も失望も、無かったように思う。それだけ自然に出てきた、この結論。



 ここ、わたしにとっての、異世界なんだ。


 割とすんなりとわたしに染み込んできた仮説、だけどほぼ事実。
 まだ怪我が完治していないらしいわたしはトイレと洗面所以外に部屋からあまり出してもらえないので、外を歩いたことはない。外の空気を感じてしまえば、きっとわたしの世界との違いを、思い知らされる。出たいような、出たくないような、変な気分だ。


 こんこんこん、三つ、扉を叩く音がした。「あいよ」と答えるとそこにいたのはレイヴン。やっぱりだ。この部屋を訪れる人で、三回扉を叩くのはレイヴンだけだった。胡散臭さが拭えないけど実は礼儀正しい人なんじゃないかなって思ってみたり(二回のノックってトイレだけなんだよ本当は)。
 いつも通りぼけーっと夕暮れに染まる街と空を眺めていたわたしを見止めると、レイヴンはひょこひょこと傍までやってきて一緒に外を眺め始めた。そうそう、聞いた話だと、このダングレストではずっと夕暮れと夜しかないんだって。朝と昼がないなんて、驚いた、ドンが教えてくれた。半分くらいしか分からなかったけど簡単に。難しい話をされても理解できなかったろうから、それでよかった。レイヴンも、ドンも、いい人。わたし、運がよかったんだ、ね。

「なに考えてるのよ、みうちゃん」

「考えること。した、…していた?」

「考え事してたのね」

 くくっと笑ったレイヴンの訂正に素直に頷いて、それでも踏みこんでこようとはしない彼の優しさが、わたしは好きだった。いざとなって詰め寄られたら、どうやって伝えればいいのか。上手く伝え切れる自信は残念ながらない。か細く息を吐いて気付かれないよう溜息を逃がす、「そうそう、忘れるとこだった」レイヴンが思い出したように顔を上げて、懐から何かを取り出してこちらへ差し出した。
 何だろう、と思い受け取ったそこはかとなく立派な紙に記されていたのは、地図、だろうか。そうだ、これは地図だ、脚注として書かれている文字も後であの本と一緒に照らし合わせて読まなきゃ―――それにしたって、随分とわたしのいた世界とは違う地形、ここまで来ると、逆に面白いくらい。笑いを堪えるのに精いっぱいになっていると、レイヴンが口を開いた。

「測量ギルド“天地の窖”お墨付き。このテルカ・リュミレースの世界地図よ」


 レイヴンは結構早口な人、だと。わたしはそう感じる、やっとこさ聞き取れたのは、最近よく聞くぎるど、という単語とそれからテルカ・リュミレースっていう単語。後者は、あの本にも載ってたっけ。
 後で確認することにして、わたしはレイヴンにお礼を言おうとする、んだけど、なかなか言葉が出てこない、ええと、お礼はどうやって言えばいいんだっけ、こういうの凄くもどかしい。

「……ぁ、えと、ぅあー」

「ありがと、でしょ」

「そっそれ!……ありがと、レイヴン。ありがと」

 どういたしまして、と言って、レイヴンは笑った。思ったよりも早く突き付けられた事実、そりゃあ地図が見たいって精一杯レイヴンに伝えたけど、まさかこんなに早いなんて思わない。うん、まぁ、騙し騙しやってても仕方ないから、今は取りあえず受け入れよう。


 テルカ・リュミレース。

 それが今わたしのいる世界の、名前。


110801


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