Mement mori | ナノ

【名前】


 


 自分で出来るって、何度も訴えた。通じない言葉でも、仕草でも、何回も言った。
 だけどこの紫の人は半ば面白がっている節もあったのだろう、くつくつと喉を鳴らしながら、終始粥を掬ってはわたしの口元まで運ぶ作業を繰り返した。殆ど自棄になってわたしもそれを繰り返した、でも当然と言うべきか大きな器に入ったお粥を全部平らげることはできなくて、変わったわたしの様子に気付いたのか紫の人は何かを言いながらぽんぽん、とわたしの頭を撫でて、それから残りは流し込むようにして自身の口の中へと掻きこんだ。「うぇ、苦ー」あ、今この人絶対不味いみたいなこと言った、だって顔がそう言ってる、よくも不味いものあんなに楽しそうに喰わせてくれたなまぁ感謝はしてるけど。

 彼はそうして空になった器をどこか満足そうに眺めて、またわたしの頭を撫でた。何か言っている、けどやっぱり分からない、でもきっと表情と仕草からしてわたしを褒めてでもいる、のだろうか。変なの、褒められるようなことはなにもしてないのに。へんなの。

 ふと、頭を撫でてくる手の動きが止まったので、特に意図もなく彼の方を見る。隣に座っている彼は相変わらず無精髭が酷いし髪もぼさぼさだし紫の羽織でピンクのシャツだった。紫の人は暫く、顎に手を当てて何かを考えているようだった。わたしはそれを邪魔しないように息を潜めて黙っていたけど、やがて彼は最初の時のようにがばりと立ち上がりわたしの目前に立ったかと思うとその場で腰を下ろし胡坐をかいた。
 丁度、わたしが彼を見下ろして、彼がわたしを見上げ覗きこむ形になる。

 紫の人は、に、と笑って、立てた右手の親指で自身を示す。「レイヴンだ」何かを言った。「レイヴン」ゆっくり、何かの単語を―――名前?


「レ、イ、ヴ、ン」


 今度は、もっと、ゆっくり。わたしに言い聞かせるみたいに。何かの単語か名前だとして、それは何だろう。長く考える必要もなく、彼が繰り返す長くはない音節の言葉、そして自身を指差しながらそれを口にしている時点で、容易に考え付くことができた。失礼とは思いながらも、躊躇いがちに人差し指で彼を示して、慣れないことばの慣れない音節を、真似、してみた。


「れ、い、ぶ、ん?」


 恐らくそれが、紫の羽織の人または紫の人、そうわたしが頭の中で呼んでいた人の、名前なのだろう。
 わたしが発音すると似てはいるけどちょっと違う感じで、でも大体あってたらしい、紫の人、改めレイヴンはこくこくと頷いては嬉しそうな顔でわたしの頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。髪の毛が乱れて前が見えない。
 あ、でも、困ったな、レイヴンさん、て呼びたくても、わたしこの世界の敬称のつけ方分からないや。呼び捨てして、しまうことになるけど、もしそれが不快だったら今みたいに訂正してくれると信じたい。せめて綺麗な発音でその名前を呼べるように、何度も彼の名を呼んだ。

「れいぶん、レイブン、―――レイヴン。」

 その度、別に意図があって呼ばれているわけじゃないと分かっているだろうに、レイヴンは律儀に返事を返してくれた。きっと面倒見のいい人なんだ。


 一頻りレイヴンの名前の練習を終えると、今度は、彼の人差し指がこちらに向く。人を指差すな、という反論は生まれなかった。彼の行動には、しっかりと意味が孕まれているだろうから。
 無意識のうちに、こくり、生唾を飲み込んで、次にかけられる言葉を待った。分からない、と切り捨てて悲観するだけではいけない。ひとつでもふたつでも、覚えられるように、聞き逃したくない。ほら、三か月も現地にいればその国の言語覚えられるってよく言うし。
 わたしの真剣な表情に気付いたのかレイヴンはまたゆっくりと話してくれた。


「名前、何ていうの?」


「……なまえ、なんて、いう、の……?」


 初心者の英会話の授業みたいに、復唱。首を傾げながら言ってみた、大体合ってるはず。レイヴンは「レイヴン、よ!」自分の名前を答えた。語尾が若干上がるのはやっぱり疑問形の基本らしい。わたしが復唱した言葉に、彼がくれた答えは、その名前。つまり、こちらを差した指が尋ねるのは、わたしの、なまえ。
 名前、聞かれてるんだ。わたしのなまえ、は。


「みう、です。みう、……みう」


「えーと、みう?」


 わたしが必死になって何度も口にした名前を、レイヴンはあっさりと発音して、これで正しいのかとこちらを覗きこむ。もう長いこと耳にしていなかった自分の名前、久し振りに、名前を呼ばれた気がして、嬉しくて、頷いた。互いの名前を知ることは、コミュニケーションの第一歩だって、偉い人が言ってた気がする。嘘だけど。
 とにかく嬉しかったのだけは嘘じゃなくて、「みう」レイヴンがこの名前を呼んでくれるだけで震えるくらい嬉しい、すごく。「みう、ちゃん」この国の言葉で返事を、したかったけど、出来ないから、呼ばれたら頷く。嬉しい。
 あれ、なんだ、わたし生きてた。まだ生きてたね。しんでたら、嬉しいも何も、感じないんだよね。色んな思いがぐちゃぐちゃになって頭の中が酷いことになっていたけど、レイヴンの青翠色の瞳を眺めていたら、何とか平静でいられた、あまりそうでもなかったかもしれないけど、壊れずに、いられた。



110801


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