Mement mori | ナノ

【青臭い】


 


 最初は、何かの悪い夢かと思っていた。そう、思っていたら、睡眠中本当に悪い夢を見た。わたしが生まれて育った世界での、夢だった。あり得ないのだ。これが夢であるならば、もう、覚めたっておかしくないけど、でも、ね。きっと、あり得ない。だってわたし、は、しんで、けどいきて、なんで、いきて、こんなところ、ああもう意味がわからない。

 そんな風に、目が覚めると頭がぐちゃぐちゃになって、だけどその度に目に入るのは夕日の色。わたしは決まって夕暮れ時に目を覚ます特技でもできてしまったのか。今の私には損にも得にもならない特技だ。



 目を覚ますと、偶に紫の人が傍にいる事がある。その人は当たり障りのない人懐っこいような、いっそ胡散臭さすら感じる笑みが板に付いた人で、やはり解せない言葉でわたしに何か声をかけて来る。このよく分からない場所にわたしが来てから、一番姿を見かける人。
 ずっと寝台にいるのは心地が悪いので、起き上がってせめて腰かけようとするのだけど、その人がいると咎めるような瞳と声でそれを制してくる。のらりくらりと軽薄な印象を与える彼だけど、有無を言わせない迫力と重みがその声にはあった。実年齢は知る由もないけど、年の功とか、そんな感じかな。

 でも今回目を覚ますと、彼はいない。それをよしとして、わたしは寝台から身を起こし、床に足をついた。実は、紫の人が見当たらない時にも、密かにリハビリ的なことをしていた。まだ、多少よろけたりはするけど、最近やっと支えを使わなくても歩けるようになったところだ。人の筋肉なんて案外簡単に衰えるもので、わたしは本当にどれくらい眠っていたのか。目を覚ます度夕方だから、よく分からないし、誰かに聞こうにも言葉が通じないからそれも出来ない。
 今のわたしには、恐らく善意から与えられているだろうこの部屋と、二階の高さにある窓から見下ろす、やはり見覚えのない町並みだけが全ての世界だった。街を囲むようにして、光る白い輪が浮いている。わたしのいた世界にはあり得ないような現象、事象だ。ここが何かのアミューズメントパーク的な場所ではないこと、は、何となくわかる。わたしの知る中じゃ一般的じゃない服装も、喧噪をひとつひとつ聞き分ければ聞こえてくる言語も、遠目に見える人々の顔立ちも、それを語っている。
 本当に、どこなんだろう、ここ。


 窓枠に腰かけてぼんやり外を見ていると、がちゃり、扉の開く音がした。力無く振り返ると、ほとんど予想がついていたけどそこにいたのは紫の羽織を着た蓬髪の彼だった。
 両手に湯気を立てる何かを持っている彼は、行儀悪く扉を足で閉めると、寝台の傍らにある小さなテーブルの上に持っていたものを置いた。お粥だった。どうやら彼はわたしに食事を持ってきてくれたらしい。わたしが立ちあがり歩き回っていた事に少し険しい顔をしたが、すぐに笑顔を作って犬や猫でも呼び寄せるように手招きしてくる。食べろ、ということだろう。わたしはこれまでそうしてきたように、ゆっくり首を横に振った。食欲が無かった。ここに来てから、ずっと。水も、申し訳程度にしか摂取してないから、そろそろ死ぬかもしれない。そういえば窓に映ったわたしは相当酷い顔色をしていた。よく歩けるようになったなぁ。
 初め、紫の人はわたしが拒むと食い下がるけど、頑なに首を振り続ければ諦めて、お粥を放置して出て行ったり匙を自身の口に運んでみせたりした(その都度渋い顔をすることから多分あれは薬草粥か何かだ)。だから、今回も、諦めてくれるだろうと思った。


「んー…そろそろ何か喰わせないと、流石にまずいわよねぇ」


 決してわたしに言ったわけではなく、ひとり言。でもそれは何故か嫌にわたしの耳まで届いて、同時に嫌な予感がした。いつの間にか、すぐ傍に、紫の人が来ていて、にたり、あまりいい印象を与えないような笑みを浮かべる。やばい、と思った、獣に襲われた時とはまた別の意味で。
 逃げ出そうにもろくな抵抗をする前にわたしの身体が浮遊感に、って、なに、抱き上げられてる、俗に言うお姫様抱っこってやつなんだけど、暴れたりしたら落ちそうだったから、つい硬直してしまう。そっと下ろされたのは柔らかい寝台の上で、何事かと座り込んだまま目を白黒させていると、目前にずい、と差し出されたのは。

 薄緑色をした粥を、控え目に一口分救った匙だった。

「ほい。あーん」

 考えなくても、言葉が通じなくても分かる、この人今絶対にあーんって言った。あーんって。
 つまり、そういうことだ、あまりにものを食べようとしないわたしに痺れを切らして強硬手段。手を焼かせてすみません別に貴方達が怖いとか嫌とかそういうわけじゃなくてですねわたしただ単に食欲が皆無なだけでしてだから悪気も何もあったもんじゃないんですその薄緑色と青臭い臭いが余計食欲を失せさせるとか決してそんなこと―――。


 にこにこと子供みたいな笑顔で迫ってくる紫の人。逃げ場はなかった。



「いただきます」



 つん、と口の中に広がった青臭い味は、飲み下すのに相当苦労したけれど、わたしにとって一生忘れられない味となった。
 それから、まるで子犬が初めて“お手”をした瞬間を喜ぶ子供みたいな、彼の顔も、きっと忘れられない。



110801


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