氷細工の命は何処に





 夢の中で聞いた音と似たような音が耳に届いた。
 重い瞼を開けば、明るく照った照明が闇に慣れた目を眩ませる。覚醒しきっていない頭で机の上に置いていた携帯を手に取り、ディスプレイを見ると時刻は夜の11時半を指していた。そう言えば、と思い出す。バイトから疲れて帰ってきて、お風呂の湯沸し器を点けてお風呂が沸くまでゆっくりしてようと思い、お茶を入れてソファに座った筈だった。どうやらそのまま眠りこけてしまったようだった。

 ソファから体を起こして、机に視線を向ける。そこにはソーサーとカップ。中には飲み掛けの紅茶が入っていた。見るからに冷めきっているそれに熱いうちが一番美味しいかったのに、と溜息を吐いて、まだぼやけている頭を振った。ふとカーテンの隙間から顔を覗かせている窓の向こうで、街灯に照らされて視認出来る沢山の水滴が見えた。

「雨か……」

 意識が浮上する時に聞こえた音は雨音だったのか、と納得する。部屋の壁に取り付けられている湯沸し器のモニターを遠目に見れば、当然の如く保温状態だった。何時間前からそうなのか、余り考えたくはなかったので意識を机に戻す。変わらず鎮座している冷めきったお茶を一気に飲み干して、風呂場へ向かった。


 部屋着を脱ぎ捨てて湯船の熱で暖まった風呂場に入る。蛇口を捻れば自分の頭よりも高い場所に設置してあるシャワーから温水が流れ始めた。
 降り注いでくる暖かい雨に閉じていた瞳を薄く開き、濡れて水滴が滴る自身の髪を見て、先程見ていた夢を思い出す。

 冷たく降り頻る雨。冷えきった空気。いくつもの鋭い氷の柱に突き刺さって血を流す魔物。その中で倒れている誰かと、立ち尽くしている自分。どれも記憶にないものだった。

 ただの悪趣味な夢か。それにしてはどこか現実味を帯びていて、吐き気がする。
 それとも単に自分が忘れているだけなのか。…………あんな、凄惨な出来事を。

 考え出しても答えは出てくることはなく、頭を洗ったりと一連の動作をやり終えて湯船に浸かる。視界に映った胸にある能力の紋章に、また溜息が零れた。……どうも、夢のせいで思考がマイナス方向に向かっているらしい。

「やめたやめた。性に合わないわ」

 無理矢理明るい声色を出して陰鬱とした感情を振り払うように、両手でお湯を救って顔に掛けた。そのまま頬に両手を置いた状態でずるずると湯船に沈んでいく。水面が顎に浸くというくらいのところで一気にずるっと滑り、後頭部が浴槽の縁にいい音を立ててぶつかった。

「いっ!?」

 咄嗟に頬に添えていた手を浴槽の底についてバランスを持ち直し、しっかりと座り直して地味に痛む後頭部を擦る。
 馬鹿なことをするものではないな……と考えながら十分に暖まった体で風呂場を出て適当に水気を取った髪をまとめ、パジャマに袖を通してリビングに戻れば時刻は0時ちょうど。日付が変わっていた。

 そのまま何気なくソファに腰掛けようとした瞬間、窓からノックが響く。

「……は?」

 驚いてその場に固まる。ノックが聞こえた窓の向こうはベランダだ。人が立てるスペースは十分過ぎるほどあるが生憎ここは6階である。私がお風呂に入っている間に誰かが部屋に入ってきた形跡は無かったし、そもそもこんな時間に、こんな雨の日に、ベランダからノックとか怪奇現象じゃあるまいし……。
 そんなまとまらない思考をしている間にも絶えずノック音は響いている。最早ただ何かが窓にぶつかっただとか動物の物音だとか、そういう話じゃ片付けられない。

 ベランダに誰か人がいる。
 そう確信してカーテン越しの窓を鋭く見やる。いつでも対処出来るように、と利き手に力を込めて一歩近付こうとした、その時。

「氷月、私だ。開けてくれ」

 ノック音と共に聞こえたこちらに語りかけてくる声。それは常日頃から聞いている耳慣れた声だった。
 慌てて窓に近付いて勢いよくカーテンを開けるとそこには思い浮かべた声の主、諒がびしょ濡れのカッパに身を包んでベランダに突っ立っていた。

「諒!? あんた何して……」

 こちらの質問には素知らぬ顔で抱えていたビニールに包まれた四角い箱を丁寧にそっと床に置き、着ていたカッパを脱ぎ出した諒に溜息を吐いて窓の鍵を開ける。
 カッパを脱ぎ終え、それに気付いた諒は私が開けるよりも早く「邪魔するぞ」という言葉と共に勢いよく窓を開け放った。おい。

「諒、ここ6階なんだけど」
「ああ、そうだな」
「…………あんたどうやって来たの」
「登ってきた」
「のぼっ!?」

 本日二度目の硬直だった。は? 登ってきた?
 こちらの混乱が理解できないのか、当の本人は真顔のまま首を傾げている。何当たり前の事で驚いてるんだ?みたいな顔してんの。首を傾げたいのはこっちだよ。
 諒とは幼馴染みであるし、実質的にはどこぞのバカより長い付き合いである。彼女の常識外れの勇ましい行動には慣れたつもりでいたが……そんな事はなかったらしい。

 はぁ……と深い溜息を吐き出し、窓の前から退いて言外に上がれと告げる。それが伝わったのかいそいそと靴を脱ぎ、一礼して部屋に上がったかと思えば諒は先程ベランダの床に置いた四角い箱のビニールを取り外していた。……大方濡れまくったビニールを部屋に上げるのは不躾だと思ったのだろう。びしょ濡れのカッパも軽く畳まれてベランダの床に置いている。

「諒、立ってこっち来なさい」
「む?」

 後で髪を拭くのに使おうと思って首に掛けていた濡れていないタオルを立ち上がった諒の頭に掛けて再び溜息を零した。
 諒自身は気にしていなかったようだが、いくらカッパを着ていたとはいえ雨で湿っている髪を丁寧に拭きながら、諒の顔を見下ろす。わしゃわしゃとされるがままになって目を閉じながらも、先程ビニールから取り出した四角い何かを大事そうに抱えていた。

「ったく……何でわざわざベランダよじ登って来たのよあんたは……。いつも通り玄関から入ってくればいいでしょ」
「サプライズだ」
「……サプライズ?」
「今日は7月24日。氷月の誕生日だ」

 真顔のままぎゅっと持っていたものを握り締める諒。それは確かに綺麗に包装紙で包まれていてプレゼントにも見えた。
 驚いて思わず諒の髪を拭く手が止まる。諒は依然真顔のまま、大事そうに抱えていたそれを私の方へ差し出してきた。

「誕生日おめでとう」
「!!」

 口元を緩ませて目を細め、そっと笑って言われた言葉に驚きと嬉しさが込み上げる。ただでさえ諒の笑顔はレアなのに。自分の誕生日なんてすっかり忘れていたから、こうして雨も気にせずにサプライズで来てくれた親友に、嬉しくて言葉が出なかった。
 無言でそのまま固まっている私に不安を感じたのか、少しだけ眉を下げた諒に、堪えきれずにばっと彼女に抱き付く。

「……氷月?」
「ありがとう、諒。嬉しいわ」

 自分よりずっと小さい彼女の体を抱き締めて、そう呟いた。そんな私にどこか安心したような、そんな笑い声が1つ耳に届く。

 そう、幸せな筈なのに。突然脳裏に過ったさっき見た夢の中の光景。

「……っ」

 何で今この瞬間なのか。忘れようと、消そうとしたのにいつまでも脳裏にこびりついて消えることはなかった。
 無意識に、抱き締めていた手に力が込もる。

「氷月? どうしたんだ?」
「っ何でもないわ。
諒、貴方今日これからどうするの」

 心配そうな声色で問い掛けられて意識を無理矢理引き戻す。わざとらしい気もしたけれど、話題を変えて諒の体を離した。諒は考えてないとでも言うような顔でこてん、と首を傾げているだけだった。だろうな。

「体、冷えてるからお風呂入ってきなさいな。まだ温かい筈だから」
「いいのか」
「寧ろこんな時間に女の子1人帰すわけには行かないでしょう。着てるものは洗濯機に放り込んでちょうだい、後で回して明日には着て家を出れるようにしておくから」
「寝巻き」
「でかいだろうけど私のを貸すわ。取り合えずさっさと体あっためて来なさい」

 語尾を強めにしてそう促せばとてとてと走ってリビングを後にする諒。ふぅ、と息をついて開けっ放しだった窓を閉める。依然、夢の内容は脳裏にこびりついて離れない。
 振り払うようにカーテンを閉めて諒から受け取ったプレゼントを机の上にそっと置く。淡い水色を基調とされた包装は、開けるのが勿体ないくらい綺麗に整えてられていて雨に濡れた様子は一切なかった。

「このためにわざわざビニールでぐるぐる巻きにしてたわけね……」

 1人呟いて苦笑する。そっと包装を剥がそうとした瞬間、側に置いていた携帯が振動を繰り返し出した。

「誰? …………シェルツ?」

 いつもならとっくに寝ているだろう、こんな時間に掛けて来た恋人からの電話に驚いて携帯を手にして電話を取る。

『あっ、もしもし氷月……? ごめんね、寝てた……?』
「いいえ、大丈夫よ。起きてたわ」

 不安そうな声に笑いながら即答すればほっと息をつく音が聞こえた。時計を確認するともうとっくに0時ちょうどは過ぎている。彼の行動の理由がすんなりと浮かんで、顔が綻んだ。

「それで? こんな時間にどうしたのかしら。貴方いつもはこの時間、とっくに寝ているでしょう?」
『分かってるくせに聞くんだ……』
「あら、何のことかしら」

 堪えきれずにくすくすと笑いながらはぐらかして、彼の言葉を待つ。
 シェルツは『っあーもー』と照れているような、諦めたようなそんな言葉になっていない単語を繰り返して、意を決したのか口を開いた。

『……誕生日おめでとう、氷月』
「………………ありがとう、シェルツ。凄く嬉しいわ」

 夢の内容が、まだ脳内から消えてくれない。
 いつまでも消えないそれに咄嗟に言葉が出ず、一拍置いての返答になってしまって、申し訳無さに襲われる。不安だったろう気持ちを押して電話をくれたシェルツの想いが本当に嬉しいのに。

 胸に潜むわだかまりから目を逸らすように、無理矢理明るい声を出して電話越しのシェルツに話し掛けた。

「ところで、こんな時間に電話を掛けてきたということは0時ちょうどには起きてたんでしょう? もう15分以上も過ぎてるけど、どうしたのかしら?」
『えっ、あー……それは……』
「本当は0時ちょうどに電話を掛けるつもりだったのにいざその時間になったら寝てるんじゃないか、とかこんな夜遅くに迷惑なんじゃないか、とかそういう事考えてこんな時間まで電話を掛けられなかったのでしょう?」

 すらすらと言葉を並べて問いかければシェルツがああああ、と声を零す。どうやら予想は当たっていたらしい。慌てる彼が面白くて可愛くて、思わず声を出して笑ってしまった。

『やっぱり気付いてたんじゃないか!』
「ふふふ、だって。こういうのは本人から切り出されたいものじゃない?」
『っそれは、そう、だけど……』
「ありがとう、シェルツ。貴方の気持ち、本当に嬉しいわ」

 精一杯の心を込めてそう言うと、ぐ、とシェルツが押し黙る。言い返したいけれど、返す言葉が見つからない、といったような感じだった。

『…………そう言えば良いと思ってない?』
「あら、失礼。じゃあこう言えばいいのかしら?
ありがとう、シェルツ。私も愛してるわ」

 先程と同様気持ちを込めて言えばシェルツは完全に黙りこくってしまった。
 少しいじめすぎたか、と思っていると電話の向こうからぼすんっという音が響く。

「……シェルツ?」
『……ほんっともー……敵わないなあ』

 小さく呟かれたその言葉の意味に気付いて笑う。
 私が笑っていることに気付いて、笑わないでよおー…と弱い抗議が返ってきた。きっと、携帯を握った彼の顔は真っ赤なんだろう。

『…………プレゼント。用意したから、楽しみにしてて』
「ふふ、ありがとう。明日、時間を作るわ」
『ん。……じゃ、こんな時間に長電話も悪いからそろそろ切るね。……おやすみ』
「ええ、本当にありがとう。おやすみ」

 挨拶を返すと名残惜しそうに切れた電話に、息をつく。
 途端、溢れ出してきた先程押し殺した胸のわだかまりに流されるまま立ち上がってカーテンを少しだけめくる。

 「………………」


 降り頻る雨を見て、脳内でぐるぐると夢の内容が回る。側の柱にもたれ掛かって、目を閉じた。
 真っ暗な闇の中で聞こえてくる激しい雨音が、夢で聞いたあの音と似ていた。

 あの日も、こんな雨だったと思い出す。たった1人、唯一の肉親だった人が消えてしまった、あの日。

「…………姉さん、」

 一言呟いて、カーテンを握る手に力を込める。


 雨は、まだ止みそうになかった。


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