ガタンゴトンと騒がしい音とともに大きく揺れる車体の振動と、左肩に寄りかかる恋人の頭の重さにいくぶんか慣れてきたとき、加藤希里はずいぶんと遠くへ来ちまったもんだなあ、と至極他人事のようにそう思った。
 本日が平日だということ、それから夕方というには少しばかり早い時間であるということを加味しても、列車には人気がなかった。なまやさしい気配、それから密室独特のまとわりつくような熱とにおいは感じられるし、実際に隣で希里の肩に頭を預けて眠っている椿の体温も感じている。車内は無音で時を刻んでいるのに、人々だけが凍りついてその場を動けないでいるような。あまりの静けさに、孤独感から、己の存在すらも危ぶまれたような感覚に陥った。夢なのではないか。いやそんな、まさか。現にこの左肩は椿のぬくもりを感じ取っている。夢と現実の狭間で、おそるおそる車内に首を巡らせると、人はまばらなこと、そして確かに生きていることを再認識しただけであった。
 古びた線路を走る列車からの風景はしばらく前に見知ったものから、山と遠くに小さく見える海に切り替わっている。何駅、こうして乗り過ごしてきたのだろうか。制服のスラックスのポケットにしまった切符に印刷された地名は、まだアナウンスされていない。目的地はどこだったか、加藤自身は正しく記憶している自信がない。そもそも到着地など考えずに買ってしまったのだ。こうした言い方をするのもなんだが、はっきり言って、場所はどこでもよかったのだ。これからのふたりのことを鑑みて、できる限り、互いの金銭面が許す限り、東京から距離が遠く離れた土地にしよう、それだけを話し合って切符を購入した。


 海と山にも見飽きてしまい、再び車内に目を戻した。あの灰色で沈んだ空気のする車内。相変わらず椿は静かな寝息をたてて眠っている。指を絡ませあったままで眠るのは辛くないだろうか、とふと思った。楽に動かせるようにした方がいいのかとしばし悩んだ。細い縄で堅く縛った希里の左手は長い時間動かしていないために、凝り固まっている。これは本当に自分の腕なのだろうか。確かに、目線を腕の主へと辿ると紛れもなく希里自身の肩に繋がってだらしなくぶら下がっている。だが、目の前のなにかを取ろうと脳に司令を送っても、この手は指一本たりとて動かないのではないか、また、希里の意志とは無関係に、隣に眠る恋人のか細い喉をひっつかんで絞めてしまわないかという疑念にかられている。

 再び列車の窓から外に目を向けると、いつの間にか雨が降り出していた。列車に乗り込んだときはどんよりと重たい曇り空ではあったが、まだ雨は降っていなかったはずだった。窓にぶつかった雨粒が玉になっていくつも転がっていった。列車はゆっくりとオレたちを東京から遠ざけていった。

 やがて列車は長いトンネルに入った。トンネル内は薄暗く、どこまでも続いている。希里はそっと目を閉じる。橙色の灯りが瞼に焼き付いていて、ちかちかする。すると突然、瞼の裏が真っ白になって、慌てて目を開けた。列車がトンネルを抜けたようだった。数多の雨粒が窓に当たっては後方へと流れていく。遠くの線路が大きく右なりに曲がったところに、無人駅があるのが見えた。

 『次は○▲駅、○▲駅』
やけに間延びした車内アナウンスは雑音が入っていて、ようやく聞き取ることができるほどだった。なんだか聞き覚えがある。右手でポケットを探ると折れて変形した切符にはアナウンスされたものと同じ地名が記されていた。椿の肩をやさしく揺すると、ん、着いたのか……と言いながら薄目をあけた。


 駅に降り立つ。自分たち以外は誰も降りなかった。駅と読んでもかまわないのかどうかもわからないぐらいに駅は閑散としていて、そして何よりも簡素なつくりをしていた。ひどく所在なさげだったけれども、名前も知らないこの場所は、ふたりでひっそりと暮らしていく分にはちょうどいいような気がした。
 わずか十センチ下から、椿の声がする。互いの手を縄で繋いでいるので腕をぴったりとくっつけたままだった。

「……キリ」
「はい、なんでしょう」

 とても言いづらそうに、そして申し訳なさそうに椿が口を開く。

「…………ろう」
「? 聞き取れませんでした。なんと言ったんですか?」
「……かえろう、と言ったんだ。帰ろう、キリ。やっぱりボクには駄目だ。…………すまない」
「………………はい」

 小雨をしのぐ傘も持っていないため、希里は自分が盾となって、椿の濡れる面積を狭くしようと抱き寄せる。椿の湿ったシャツが希里にも張りつき、体温を急激に下げた。時刻表がところどころ剥げて、文字が読めなかった。今日中に列車が来るかどうかもわからないまま、ふたりは雨の中でずっと立っていた。縄が冷えていく腕を締め付ける感覚ばかりが希里を支配していた。



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