ガチャン! と破砕音が響いた。石が敷き詰められた床には透明なガラスの欠片が散らばり、そのまわりには水が染みを作っている。わなわなと震えるナマエと、水と花の入った花瓶を後頭部に投げつけられた兵長を見比べて気を失いそうになった。俺たちしかいないこの空間はシンと静まり返って、息をするのもつらいくらい。兵長の頭とシャツは水でびしょびしょだし、せっかく活けた花は床に投げ捨てられて、ああ早く拾って新しい水に活けてやらないと萎れてしまうななんて少しずれたことを考える。

「兵長の自己犠牲愛者!」
「こらナマエお前は何を考えてこのバカ!」

 というかどこでそんな言葉を覚えてきたのだろうか。俺たちに背中を向けている兵長は微動だにせず、そんな様子にまた苛立ったのかナマエは歩み寄って背中をバシンと叩いた。死にたいのか。

「いい加減にしろって、落ち着けよ」
「離してよ! もういいです兵長なんて知りませんっ」

 身動きが取れないようにナマエの腕をつかんで兵長から引きはがすと、思いっきり振り払われた。そして踵を返してかつかつとかかとを鳴らしながら立ち去る。少し涙ぐんでいたように見えたけど……。ナマエの姿が見えなくなった途端、ハンジさんが腹を抱えて笑い転がった。あんた恥じらいってもんを覚えてくださいよ。呆然、としているのかしていないのかは置いておいて、立ち尽くす兵長に何と声をかければいいのかわからずおろおろとしていると、気がすんだらしいハンジさんが目尻ににじんだ涙をぬぐいながら立ち上がった。そして兵長の肩にポンと手を置いて、

「いやー最高に笑った! ナマエを怒らせるのってリヴァイくらいだよねー」
「分隊長、それフォローになってません」

 こちらに背を向けているため兵長の表情は見えない。が、いつものように人を刺すような恐ろしい雰囲気ではないようだった。落ち着いたとはいえやはりまだおかしいのか分隊長はまた肩を震わせ、兵長の隣を通りすぎてナマエが立ち去った方向に足を進める。追いかけるのだろうか。そしてここに置いていかれる俺はいったいどんな反応をするのが正しいのか。とりあえず分隊長のあとを追うように兵長の隣を通って、「失礼します」と頭を下げた。いつもと同じ寝不足そうな無表情のまま、じっと立ち続けている。なにかを考え込むように腕を組んで、それから俺たちと逆の方向に足を進めた。いったいどこにいって何をするんだろう。「ナマエはどこで不貞腐れてるのかなー」とどこか楽しそうにしている分隊長より先にナマエを見つけて、どうにか機嫌を直さなければ。
――第四分隊副長、モブリット・バーナー


◇◇◇


 やってしまった、ととても後悔した。穴があったら埋まりたい。そしてそのまま肥やしになりたい。ナマエはその場に座り込んで頭を抱えた。

 少し出かける、といってリヴァイがひとり街に行こうとしていたので、私も行きますと言って着いていったのはいい。方向音痴をひどくこじらせたナマエは街で案の定はぐれ、兵士になって数年経つというのに半泣きになりながらリヴァイを探していたところ。昼間から酒を呑み出来上がっていた、見るからに面倒くさそうな青年複数人にからまれた。今日は休日ではなかったために兵服で街に出ていたので、最初はいつものように税金泥棒と罵られていたのだが、よくよく見てみるとナマエがそれなりに整った顔立ちをした女性兵士だと気付いたらしく、ナンパよろしく「こっち来いよ」と腕を無理やり引っ張って連れて行こうとしたのだ。するとちょうどいいタイミングで現れたリヴァイが青年たちを無視してナマエを連れて帰ろうとし、空気のように扱われた青年たちがカッとなって手を出し、売られた喧嘩は買うとばかりにリヴァイも反撃しはじめた。
 しかしさすが人類最強と言われているだけあって、複数人対ひとりでも圧倒的に強かったリヴァイによけい腹が立ったらしいひとりの青年が、うまいことそばに落ちていた空き瓶で彼を思いっきり殴ったのだ。瓶は割れてリヴァイの肩の皮膚を裂き、鮮血がパッと舞う。振り返ったリヴァイはそのまま勢いよく青年の顔面をぶん殴って、それからナマエの腕を引き逃げてきたのである。

 大丈夫ですか、血が、あざもできてるかもしれないどうしよう、と慌てふためくナマエに「いい加減その方向音痴を直せ」と一言声をかけたリヴァイは、それからは何を話しかけられても無言を貫いていた。だんだんそれに不満が積もったナマエは、本部に着いてハンジやモブリットと合流したときにとうとう言った。

『なんで避けなかったんですか兵長のまぬけ!』

 ひどいやつあたりじゃないかと今となっては思う。まず自分が酔っ払いに絡まれたのがいけないのだ。迷子にならなければ、いや、まず街に着いていかなければよかったのだ。後悔すればするほどキリがない。はああぁ……と深い深いため息をつく。廊下の隅で頭を抱えてうずくまっているナマエを見て、そばを通りかかった兵士たちが怪訝な表情を浮かべる。中には体調が悪いのかと心配そうにしている者もいたが、誰も声をかけることはなかった。きっと兵長も呆れただろうなあ、急にキレて意味わかんないやつって思われてたらどうしよう。さっきもうしろでハンジの大きな笑い声が聞こえたのだ、ナマエは自分の精神年齢の低さを改めて自覚した。こんなときは部屋の掃除でもして紅茶を飲むと落ち着く。同期であるモブリットが自分を探していることなどつゆ知らず、入り組んだ造りをしている調査兵団本部をぐんぐんと進んでいき、自分の部屋へと向かおうとした。……その前に、と足を止めて、くるりと方向転換する。ひとりでお茶したってなにも楽しくない。ペトラでも誘おう。ナマエさんの買ってくるお茶はおいしい、と可愛らしく微笑む彼女はナマエのお気に入りだった。何かお菓子でもあっただろうか、と自室のとっておきのものをしまう棚の中身を思い出す。心の奥はズンと重いまま、ナマエは階段を下りていった。


◇◇◇


 ナマエさんと兵長の関係? ただの上司と部下だろ、それ以外に何があるんだよ。あーでも、お互い何考えてるのかわかってるんだろうなってときは、たまにある。たとえば前に兵長がナマエさんを呼んだだけで「花瓶の水は変えましたよ」とか言ってたし、逆にナマエさんが兵長を呼んだだけで「その書類はあそこに置いてある」とか言ってたし。名前呼びあうだけで何が言いたいかわかるって相当だよなあ。しかもナマエさん、あそこって言葉だけで書類の場所すぐわかってたし。なんだろうなあのふたり。え? なんだよミカサ。私もエレンの考えていることが分かる? 嘘つけよ適当言うなって。「エレンは今、このあと私とする訓練のことを考えている」考えてねーよ! 今兵長とナマエさんの話だろ! お前何聞いてんだよ! つーかお前と訓練はしないって何度言えばわかるんだよ! おい! 聞いてんのかミカサ!
――特別作戦班、エレン・イェーガー


◇◇◇


「それはまあまた、ひどいやつあたりですね」

 一連の流れを説明してみせると、ペトラは困ったように笑ってそう言った。だよねえ、とがっくりうなだれ、手のひらで包み込んだティーカップを見下ろす。紅い液体が揺れて、映った自分の顔も歪んだ。誰がどう見てもただのやつあたりである。謝らないと、とは思うのだけれど、気まずくて合わす顔がない。落ち着こうと思ってお茶を淹れたはいいけれど、やっぱりよく考えれば考えるほどへこむ。ソーサーにカップを戻して行儀悪くスプーンでガチャガチャとかき回していると、部屋の扉がやや乱暴に叩かれた。主であるナマエが立ち上がって扉を開けると、そこになっていたのはリヴァイ―――ではなく、先ほど大笑いしていたハンジだ。いつも隣にいるモブリットの姿はない。

「ど? 元気出た?」
「ハンジさん……」
「そろそろ謝りに行くころかなーと思って」
「うう……兵長、怒ってましたよね、呆れてましたよね……」
「それはどっちかといえばモブリットのほうだねえ」

 とりあえずおじゃまするよーと遠慮も何もない。だがいつものことなので慣れたようにナマエはハンジの分の紅茶を注いだ。紅茶はポットに作ってあるし、ティーカップはいくつか部屋に置いてある。こういういきなりの来客にも対応できるのでいつでもこのスタイルだ。スプーンに山盛りの砂糖をバカバカと入れるハンジにペトラは驚いた。砂糖だって貴重な調味料である、この遠慮のなさは本当にすごい。私もこのくらい図太くなったほうがいいのかな、と少し唸ってしまうくらいだ。そしてそれも毎回のこと、自分が座っていた椅子をハンジに譲って、ナマエはベッドに浅く腰掛ける。もともと自分が飲んでいた紅茶を一口すすって、あ、ちょっとぬるくなってきたかもしれないとハンジの様子をうかがった。ぐびーっと一気に甘ったるそうな紅茶を飲み干し、新しく自分で注いでいるので気にならないようだ。おおらかな性格はハンジの魅力であるとナマエは思っている。

「あとで謝りに行きます。その前に気持ち落ち着けたくて……」
「ナマエはいつもそれだなあ。紅茶飲んで落ち着けてからにしますーって」
「ほっといてください」

 むすうとへの字に唇を結ぶ。小さな子供ような表情をするナマエがおかしくて、ハンジとペトラは同時に吹き出した。不貞腐れた表情を笑われたナマエは恥ずかしくなってごまかすように紅茶を飲み干した。新しく注ごうとポットを傾けると、少し雫が垂れただけで中身は残っていなかった。たくさん作っていたつもりだったのだが飲んでしまったようだ。

「ちょっとおかわり作ってきますね、ハンジさんお菓子どうぞ」
「ごめんねー、ありがとう」

 勝っていた焼き菓子をペトラにも勧め、ナマエはベッドから腰を上げた。すみません、と頭を下げるペトラに手を振って応え、部屋から出て食堂へと足を向ける。無意識に深い深いため息が漏れた。



 あまりのタイミングの悪さに、手に持ったポットを落としそうになった。食堂にやってきて調理場にいたリヴァイの背中を認識した瞬間、足が来た方向に向かって進み出すくらいである。しかしおかわりを作ると言って出てきた手前、このまま帰るのもおかしな話だ。もう一度食堂内の方向に体を向けると、足音で気付いたらしいリヴァイがこちらを見ていた。いつも通り、何を考えているのか悟らせないような冷めた目をしている。ぐっとのどが締まる。ポットの取っ手を握る手に力を込めて、ゆっくりと調理場に足を進めた。リヴァイと少し距離を取って、流しでポットの中を軽くゆすぎ、新しく湯を沸かす。お互い何も話すことはなく、ポットの注ぎ口からヒュウヒュウと音が鳴るだけだ。茶葉やティーコジーを取り出せばそれ以上することは見つからず、気まずい空気を耐えるのみである。指先をなんとなくいじりながら立っていると、ガタリと物音が聞こえた。椅子に腰かけお茶を飲んでいたリヴァイが立ち上がる音。どきどきと胸を鳴らしながら張り詰める空気に耐えていると、リヴァイはナマエの近くの流しでカップを洗い、棚に片づけてそのまま無言で食堂を出ようとした。自分が一方的に彼に怒っているだけだが、何も声をかけてもらえないことにショックを受けて、思わず声を上げる。

「あのっ、兵長!」

 もうあと一歩で食堂から出られる、というところで呼び止められ、肩越しにリヴァイは振り返る。呼び止めたはいいものの何を言えばいいのかわからないナマエは、「あの」「ええっと」と視線をあちこちに向けてしまいには俯いてしまう。

「……お、おこってますか」
「なにがだ」
「う、あっあの、頭大丈夫ですか」
「……」
「あっ違う間違えた! そうじゃなくて!」

 言い方を間違えるだけでこんなに失礼な発言になるとは。慌てて手を横に勢いよく振って、それからよく考えて言葉を選び直す。

「頭、あの、花瓶、投げつけちゃったから」
「平気だ」
「た、たんこぶとかできてたらどうしようって」
「できてねえ、気にするな」

 だんだん沸点に近付いてきているのか、ポットのふたがガタガタと音を立て始める。素っ気なく、しかし普段より少しやわらかく言葉を発するリヴァイに、ナマエはどれだけ失礼だったかを考えてとても申し訳なくなってきた。花瓶を頭に投げつけるなんて。普通カッとなって人に向かって、しかも後頭部に物を投げつけるなんてあまりしないことだと思うし、そしてナマエも普段はそんな乱暴的なことはしない性格なのだが。パリンと割れた花瓶、その前に聞こえたゴンという骨と花瓶がぶつかった音、モブリットの焦った表情、それらを思い出してナマエはどうしようと焦燥感に駆られた。やわらかい物言いなのに、嫌われたらどうしようと思った。見る見るうちに目を潤ませるナマエに内心少し驚きながらも、「どうした」とリヴァイは相変わらず冷静に声をかけて数歩近付く。

「へ、兵長に、嫌われたらどうしようって」
「たしかに人に物を投げつけるのは間違っているがな」
「すみませんでした……」

 いたたまれずうつむいて体を小さくするナマエの頭をぽん、と撫でる。お湯が沸いたらしくピーッと高い音を鳴らしたポットのほうを見て、ナマエのかわりにリヴァイが火を止めた。そうして手際よく茶葉をポットの中に入れ、ふたをして蒸らす。

「淹れるときは別のポットで湯を沸かしてあとから移せ、その方が味がいい」
「えっ、あ、はい」
「女ひとり守れねえと、格好つかねえだろ」
「えっ、あ、はい。……はい?」

 今のどういう意味ですか、とナマエが聞く前にリヴァイはさっさと食堂から出て行ってしまった。兵長と呼びかけてみても無視である。たっぷりの紅茶が注がれたポットとナマエだけが食堂に残され、誰もナマエの質問に答えてくれるものはいない。よくわからないがなんだか特別なように聞こえて、耳と頬が熱くなる。布巾を底に当てて紅茶が入ったポットを持ち上げた。ハンジとペトラを待たせている、早く部屋に戻らなければ。食堂を出て、少し急ぎ足で自室への道のりを行く。慌てすぎて途中何度も足がもつれて転びそうになり、そのたび手に持ったポットを死守するのに必死だった。しかしそれ以上にさっきの出来事で胸が高鳴りすぎて、誰かに聞いてもらいたくて、いつもよりやや乱暴に自室の部屋のドアを開けた。


◇◇◇


 え? リヴァイとナマエ? 仲直りしたみたいだけどねー。まああのふたりの喧嘩って大小関わらず月1レベルで開催されてるからね。あんまり気にしないほうがいいよ。それより今から生け捕りした巨人のところに行くんだけど……え? あーそうだね、リヴァイもナマエも変な方向に正直だからなあ。たまにああやって口喧嘩になるんだよね。んでその巨人の名前がまだ決まってなくて……あああのふたり? 別に付き合うとかそういう関係じゃないよ。なんていうかなんだろうね、兄弟みたいな感覚なんじゃない? 私はリヴァイでもナマエでもないから、正しいことはまったくわからないけどね。そんなことより新しい実験方法思いついたんだけど……。
――第四分隊隊長、ハンジ・ゾエ


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