きっとルウのことが好きなんだろうなあ、と自覚して早数日。だからといって隣の席に座る少女に対する態度を変えるつもりはないし、この気持ちを伝えようとも思ってはいない。まあ付き合うとか、そういう関係になれたらそれはとても幸せなことだろうけど、好きだと言って今の距離感が崩れてしまうのがいやだった。やっと仲良くなれたというのに、自らそれを壊してしまってどうするんだ。

 美術の授業でデッサンをすることになった。学校の敷地内にある好きな植物を選んで描き、それを提出するらしい。絵を描くことは得意でも好きでもないので、まあ適当に何か描いて出せばいいか、とマルコは鉛筆と消しゴム、スケッチブックを持って校舎を出た。ジャンや他の親しい友人と固まってデッサンをしてもいいのだが、そうなると話に盛り上がって真面目に描けると思えなかったので今日はひとりだ。今の時期花はたくさん咲いていて、どれにしようか悩んでしまう。たまたまそばを通りかかったユミルが「花が多い木だと面倒だな」と言ってあくびをし、クリスタに叱られていたのを聞いてああたしかにと納得してしまう。だがしかし彼女は絵がうまかったような気が。才能があるのにそれを発揮しないなんてもったいない、と思うのは絵の才能がない凡人の妬みだろうか。

「……あ、そうだ」

 玄関前のソテツを眺めていると、いつだか校舎の中から見たあの白い花のついた木を思い出した。クリスタがいろいろと雑学を話してくれたのに、ひとつも思い出せない。なんだったかなあ、と首をひねりながら、とりあえずあの木がある裏庭に足を向けた。



 ああそうだ卯の花だ。旧暦4月、卯月に咲くから卯の花。それだけやっと思い出したとき、その卯の花が視界に入る。裏庭にはあまり人が来ていないらしい。あのときの木を描こうと探していると、その木の前に見慣れた姿が見えた。ブレザーの下にパーカーを着ている生徒なんて、彼女しかいない。
 アニはスケッチブックを持ったままふらふらと歩いていた。卯の花を眺めてはいたが描くつもりはないらしく、すぐに目を逸らして足を進める。小柄な体格ながら見目が整った彼女は目を引く。マルコはあまりアニとふたりきりで話をしたことはなく、ライナーと地元が同じということくらいしか知らない。とりあえず卯の花の前に行こう。一歩踏み出したところで砂利が音を鳴らし、気付いたらしいアニが足を止めて振り返る。目が合ったので無言のままの変だと思って手を振っておいた。しかし彼女からは何の反応もなく、むなしい風がふたりの間を吹き抜けた。相変わらずクールである。

「アニ、何描くか決めた?」
「……めずらしいね、あんたがひとりなんて。金魚のフンはどうしたんだい」

 もしかしてそれはジャンのことだろうか。なかなか辛辣なことを述べるアニにあはは……と苦笑いを浮かべる。やはり自分はジャンといつも一緒にいるイメージなのだろうか。

「最近はあいつともよくいるみたいだけど」
「ん? あいつって?」
「決まってるだろ、ルウだよ」

 驚きのあまり思いきりむせてしまった。咳き込んでいるとアニが「なんだこいつ」とでもいうような視線を向けてきたが、誰のせいだと思っているのだろう。このあいだライナーやジャンにも似たようなことを言われたし、やはりわかりやすいのだろうか。隣の席になってからは反応が返ってくることが嬉しくて楽しくて、今では一緒にいられることが幸せで。ルウに惹かれていることに気付いてからは、目が合うだけでもどきどきするし、隣の席で授業を受ける、ということにすら優越感を抱いている。相変わらず授業中はノートを取るふりをしながらルウを横目に眺めることが多い。窓の外を眺めたり、あの細い指でシャーペンを回してみたり、眠たそうに瞬きを繰り返したり。休み時間にはクリスタやサシャたちと話すことも多いが、イヤホンをつけて携帯音楽プレイヤーでなにやら聴いていたりもする。どんな音楽を聴くんだろう。最近はそればかりが気になっているが、あまりそういうことに詳しくないマルコは、未だにその質問をできていない。

「どこがよかったんだろうね、あんな難儀なやつ」
「きついなあ、アニは」
「私からしても面倒くさそうだよ、あいつ」
「んー、でも、それがいいのかもしれない」
「……惚気ならよそでやってくれる?」
「聞いてきたのはアニだろ!」

 なんて理不尽な文句の言われ方だろうか。というか、アニは自分がルウに特別な感情を抱いていることに気付いているのだろうか。だが彼女とこんな風に会話をするのは初めてで、わりと気安い子なんだとマルコはこっそり息をついた。ライナーとベルトルトと話すくらいであまり誰かと一緒にいることが少ないアニだが、話してみると案外普通だ。冷静沈着でクールな容姿の彼女はどこか近寄りがたい雰囲気があり、クラスでもどこか浮いている。だから少し怖いという先入観を抱いていたのだが、冗談を言ったりもするらしい。ルウと少し雰囲気が似ているが、アニはアニで違う印象である。

 そろそろ真面目にスケッチをしないと授業が終わってしまう。例の卯の花が目の前に来るところに座り込んだマルコを見て、アニは面倒くさそうに溜め息を吐いたあと、ゆっくりと隣に腰を下ろした。どうやら彼女もこの花を描くことにしたらしい。うしろには校舎があるので、背もたれの役割を果たしていて描きやすい。

「この花、卯の花っていうらしいよ」
「あんた、花の名前詳しいとか女子かい」
「違うって! クリスタに教えてもらったんだよ、ルウが言ってたって」

 美術室から拝借してきた鉛筆を握り、木の幹をそれっぽく描いていく。こういうものは、少し鉛筆を寝かせて描けばいいと聞いたことがある。文字を書くときより横向きに鉛筆を持って、シャッと線を引いた。やはり校舎のそばは陰になっているので、少し肌寒い。しかも今日は少し曇り空だ。雨が降らないといいなあとぼんやり空を眺めていると、呆れたようにまたアニが溜め息を吐いた。

「あんた、またあいつの話してるけど」
「……ごめん、本当に無意識で」
「だから惚気はよそでやれって言ってるだろ」

 どうしても頭の中にルウが浮かんでしまうらしい。恥ずかしくて顔に熱が集まる。鉛筆を持っていないほうの手で顔を隠すように覆うと、ふっと笑うように息をつく気配がした。顔を上げて横を見てみても、アニは相変わらず何を考えているのかわからないような無表情で、目の前の卯の花を眺め、面倒くさそうにスケッチブックに視線を落とし、やる気が感じられない手つきで鉛筆を動かしていく。今、もしかしなくても、彼女は笑ったんじゃないだろうか。それだけで一気にアニと親しくなれたような気がして、マルコは思わず笑い声がこぼれた。隣から鋭い視線が向けられる。

「何笑ってんだい」
「いやごめん、アニって結構、とっつきにくいと思ってたからさ」
「失礼だね、ただのか弱いひとりの乙女だよ」
「それ、笑っていいところ?」
「蹴飛ばすよ」
「ごめんってば」

 そんな冗談を交わし合いながら、鉛筆を持った手はすいすいと絵を描いていく。あまり絵はうまくないけれど、それでも成績は大事である。いびつながらもなんとか描いていき、木と呼べるような形になったころ。じゃりじゃりと石を踏む音が聞こえてきたので顔を上げた。きっときちんとスケッチしているか確認しに来た美術教師だろうなあ、と思っていたマルコは、少し驚いて一瞬息がつまった。スケッチブックを持ったルウとサシャがいたのだ。思考が停止したあと、そういえばこの授業は隣のクラスと合同だったと思い出す。サシャは「マルコとアニが一緒なんてめずらしいですね」と不思議そうに瞬きをした。その隣でルウは何も言わず、じっとマルコの隣に座るアニに視線を向けている。

「何描いたんですか? 私とルウはですねえ、校門の近くのなんだかよくわからない花を描いたんですよ!」
「サシャ、あれはカキツバタ」

 ふと目を逸らし、にこにこと満面の笑みを浮かべるサシャに冷静なツッコミを入れるルウ。花のことなどまったくわからないマルコは、カキツバタという名前だけではどんな花なのか見当もつかない。以前も思ったことだが、やはりルウは花の名前に詳しいらしい。
 ふたりはそのカキツバタを描き終わり、時間があまったのでもう少し何か描こうと思ったようだった。サシャにスケッチブックを見せてもらうと、果たしてこれは花と呼べるのだろうかと首をひねりたくなる物体が描かれていて、ルウのほうを見てみると、そっと目を逸らされた。どうやら彼女もこの絵を見て同じ感想を持ったらしい。何も言わないほうがよさそうだ、そう思って「ここに座りなよ」と隣のスペースを勧めると、アニがサシャの絵を見て「幼虫の集まり?」とデリカシーも何もない発言を。マルコはサシャがショックを受けて怒ったり泣いたりしたらどうしようと背筋が凍った。彼女は少し正直すぎるところがあるらしい、あとでライナーに言っておこう。

「なんでですか! カキツバキですよカキツバキ!」
「サシャ、カキツバキじゃなくてカキツバタ」
「そのカキツバキって、こんなに毛が生えてるものなの」
「これは毛じゃないですよ、葉っぱです」
「……へえ」
「アニ、カキツバタだってば」

 どうやらサシャに普通の感性を求めることが無駄だと感じたのか、アニは諦めたように会話を終わらせた。名前を勘違いしたまま会話を続けるふたりは気にしていないようだが、ルウの訂正を少し聞いてやってほしい。
 そうしてアニの隣にサシャ、マルコの隣にルウという順番に座り、並んで卯の花をスケッチする。とはいっても、もうマルコとアニは完成間近だ。未だ毛ではなく葉っぱだという主張を続けるサシャはアニに任せるとしよう。
 カキツバタを描いた隣のスペースに鉛筆を走らせるルウが、ぽそりとつぶやいた。

「楽しそうだったね」

 よく意味がわからなくて、正直に首を傾げてみせる。と、ちらりと一瞬視線を上げてからまたスケッチブックに目を向け、「アニと、楽しそうだった」とマルコだけに聞こえる声量でつぶやくルウ。そうしていつものように、細い指がくるりと鉛筆を回した。しかしそれは綺麗に回ることなく、からんと砂利の上に落ちてしまう。なんでもないように鉛筆を拾うルウを見ながら、マルコは体温が上がるのを感じる。もしかして、これって。都合のいい考えが頭に浮かび、それを振り払うように首を横に振った。

「別に、ジャンとかライナーと話してるときとかわらないよ」
「ふうん」

 特に興味がない、というふうにルウは相槌を打ち、卯の花を眺めて鉛筆を動かす。先ほどのセリフは、やはり気のせいだったのだろうか。どこか期待してしまっていたマルコは、ルウの普段通りの態度にがっくりと肩を落としそうになる。ブレザーのポケットに入れていた携帯を取り出し時間を確認すると、授業が終わるまであと20分近くあった。サシャは大人しくスケッチを再開したらしい。隣のアニはもう描き終えたようで、寒そうに膝を抱え込んで携帯をいじっている。やはり日陰は冷える。遠くのほうには黒い雲が見え、ああやはり雨が降りそうだと気が重くなった。残念ながら今日は傘を持ってきていない。折り畳み傘は小さすぎて使うのがあまり好きではないので持っていないのだ。もう一度ルウに目をやると、細々と白く咲いた花を描き込んでいて、その表情はめずらしく真剣そのものである。
 でも、やっぱり、ほんの少しだけ、期待してもいいだろうか。ためしに持っている鉛筆を指で回すと、くるりと綺麗に1回転。初めてペン回しができたと同時に、ごろごろと腹の奥に響くような雷鳴が聞こえた。

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