憲兵団という組織は腐りきっている。それは周知の事実であった。といっても、まだあまり世間を知らない子供や、内地での安全な生活を夢見ている訓練兵たちはあまり知らないようだけど、けれど、訓練兵の過程を終え、新兵となった者たちはほとんど全員そう言い表す。まあ実際そう言われても仕方がないくらいにこの組織は乱れていた。憲兵団歴ウン年の兵士が新兵に仕事を押しつけているところや、勤務中に酒を飲むところも、散々見てきた。本来なら罰則を与えるべきなのだろうが、ナイル自身、今より位が低いころ同じようなことをしてきたので、何となく見逃していたりする。師団長というお偉い立場になった今では、いやというほどに書類と戦っているが。

「しだーんちょー、書類不備ですよーっと」

 気の抜けるような声とともに執務室の扉が開かれた。こんなアホみたいな喋り方をするのはあいつしかいない、そう思いながら顔を上げると、想像した通りのクソ部下が書類を持って立っていた。目が合うとへらりとアホみたいな顔をだらしなく緩ませる。

「サインがあるのにはんこ押せてませーん。まったくもうお茶目さんですね、寝ぼけてたんですか? 3枚もあるんですけど」
「そうかそれは悪かったな、今すぐ押してやるから貸せ、そして今すぐ出ていけ」
「これ師団長の直筆ですよねえ全部。手大丈夫です? 腱鞘炎とかなっちゃったりして! ウケるー」
「何がウケるんだお前の頭の中は快適だな相変わらず」
「あらら褒められちゃいましたー。ほんとにねー、こんな腐りきったアホ組織に何年もいたら緩くなっちゃいますよね脳みそのひとつやふたつ」

 って脳みそはひとつだけしかないっちゅーの! とセルフツッコミを披露してけらけらと笑う。ナイルはこのナマエという部下が苦手であった。苦手というか、相手をするのが非常に疲れるのであまり同じ空間にいたくない。このだらだらとしたアホみたいな喋り方もものすごくイライラする。しかし仕事はできるので完全無視というわけにはいかないのだ。しかもなぜかナイルのところに書類を届けに来たり取りに来たりするのは決まってナマエだ。誰だこんな嫌がらせをしているのはとたびたび思う。思うのだが、「ちょっと借りますねー」といって給湯室に入っているところからわかるように、なんだかんだで気が利くところがある。だからナイルも出ていけと言いつつ追い出したりしないし、二度と来るなと言ったりすることはなかった。しかもナマエが淹れるお茶が実においしかったりする。机の引き出しから普段書類に使用している判を取り出し、朱肉を探しているとナマエがナイルの愛用しているマグカップを持ってきた。ナイル好みの温度に淹れられたそれを礼を言いながら受け取り、引き出しの中を漁りながら一口すする。そして次の瞬間ブッと吹き出した。うげえ師団長ばっちいとえらく顔をしかめてみせるナマエに、ナイルはツバを飛ばす勢いで怒鳴りつけた。

「おいなんだこれは! 変に甘いし味がないぞ!」
「ええ〜、なんか茶葉切れかけてたんで、仕方ないから葉っぱ3枚分くらいで淹れときました」
「新しい茶葉缶開けるとかあるだろうが! ほとんど白湯だこんなもん!」
「健康的でいいじゃないですか〜」

 悪びれた様子がないナマエにマグカップを投げつけたくなるのを何とか堪えた。ご丁寧に砂糖を入れてあるから味は最悪である。吹き出した紅茶味のお湯でびしょびしょになった書類を全部最初から書き直すことを考えて、ナイルは舌を打つ。「ひょ〜師団長更年期ですかあ?」とおどけた表情でぬかすナマエにやはりマグカップを投げつけようかと手に力を込めた。だいたいなんだ更年期って。悪かったな中年で。というかあれは女の人だけがなるもんじゃないのかとなんだかいろいろと間違っているナイルにつっこむ者は誰もいない。もう一口お湯を飲んでから、見つけ出した朱肉でインクをつけ、ダンと強めに判を押した。

「押したぞ、さっさと持って行け」
「はーいどうもでーす」

 3枚の書類を受け取ったナマエは、ぺらぺらとめくってきちんと判が押せているかを確認する。大丈夫ですね、と淡く微笑んだ。今している書類も忘れているかもしれない、ナイルはあとで判とサインの確認をしようと決めた。一応淹れてもらったものなので、マグカップに並々注がれた紅茶味のお湯を一気に飲み干す。「師団長のそういうところ、かっこいいから好きです〜」と体をくねくねさせながら言うナマエが心底気持ち悪いと思った。

「んじゃ、私はこれ提出してきますね〜」
「ああ、悪かったな」
「えっやだ! 師団長がお礼とか、明日は雪ですか嵐ですか!? あっもしかして巨人がここまで来ちゃうとか」
「お前というやつは人が素直になれば! 縁起でもないことを言うな!」

 イラッときてすぐ手元にあるシーリングワックスの蝋を思いきりナマエに向かってぶん投げる。しかし反射神経はいいらしく笑顔のままぺしっと手で弾かれてしまった。ナイルの苛立ち度がぐんぐんと上昇する。本当にこいつは人を苛立たせるのが得意だ。これで訓練兵を首席で卒業してここにいるのだから、世の中いろいろと間違っている。
 さっさと行けというふうに手を振ると、「あんまりイライラしてると頭の血管ぷちーんといっちゃいますよお」と言いながら軽やかな足取りで扉を開けて部屋を出て行く。いったい誰のせいでこんなにイラついてると思ってんだこのクソアマと叫んでやりたくなるがなんとか堪え、そのかわりに今度は手元にある手頃なものを閉まった扉に向けてゴンと投げつけた。確認しないで放ったのが悪かった、あれはずっと愛用している懐中時計である。床に落ちた金色に輝くそれを認識した途端、ナイルは頭を抱えたくなった。壊れていないだろうかと扉の前に歩いていき、衝撃でふたが開いた懐中時計を拾う。ああ最悪だ少しへこんだしヒビも入っている。絶対ナマエの給料から修理代差し引いてやるとナイルは誓った。完全な職権乱用である。また小さく舌を打つと、目の前の扉が勢いよく開かれた。気を抜いていたナイルはその扉に思い切り体をぶつける。そしてそのまま膝をついて倒れこんでしまった。

「あ、やだ師団長そんなところに立ってたら危ないですよ」

 案の定ナマエである。こいつは俺のことが嫌いなんだなそうなんだな。ゴホンと咳を1回して立ち上がり、自分の目線よりずっと下にあるナマエの顔を見つめる。なんですかと言いたげな顔で首を傾げるナマエは至って普通の愛らしい女性だ。そうだ、こいつは黙って仕事をしていれば普通なのだ。話をするといちいち苛立って仕方ないが、それを抜きにすればそばにいたって気を遣わないでいい、気安い相手なのである。しかしそれとこれとは別だ。右手を拳にして、それに力を込めて思いきりナマエの頭に振り落した。ウッとくぐもった声を漏らす。

「イッター! なんなんですか師団長ひどい!」
「貴様というやつは本当に! そんな勢いよく扉を開けるなと前にも言っただろうが!」
「そんな師団長の小言なんていちいち覚えてませんよーもう、たんこぶできちゃう」

 唇を尖らせながら頭を撫でるナマエの頬をつまんでのばす。きゃーっという悲鳴が上がった。

「誰が小言を言わせてんだ誰が! お前は上官への態度を改めろ!」
「えっ師団長への態度なんてこんなんで十分でしょう。これ以上どう丁寧にしろと」
「お前俺のことなんだと思ってるんだ?」
「めんどくさい薄らヒゲ兼上司」

 真顔できっぱりと言い切ったナマエの頬を張った。ばちんといい音が執務室に響いて、それからナマエがまた「ひどい!」と声を上げた。そんなものは無視してまたナイルは自分の使っている椅子に座って机の上の書類を片付け始める。誰が薄らヒゲだ、こいつ減給対象にしてやるとナイルは誓った。完全な職権乱用である。サインと判の確認をしていると、やはり1枚判を押し忘れているものがあった。何事もなかったように朱肉に判を押しつけ、それを書類に押す。ナマエは怒ったような表情をしていた。

「せっかくマグカップを洗いに来たのに、この仕打ちはないと思うんですよ」

 ナイルが机の上に置いたままだったお湯の入っていたマグカップを手に取り、ナマエはぶつくさと文句を言いながら給湯室に入っていく。この仕打ちはないと思うんですよ、だと。それはこっちの台詞だ。ナイルは一応憲兵団トップの師団長という立場である。それなのにこの何の役職も持たないアホみたいな喋り方をするアホな部下になんでこれ以上どう丁寧な態度をとかめんどくさい薄らヒゲの上司とか言われなければいけないのか。まだ昼前だというのに機嫌は最高に悪くなりつつある。なんだかいいにおいがしてきたと思えば、またナマエがマグカップを持って給湯室から出てきた。ナイル好みの温度に淹れたらしい、今度はきちんとした砂糖入りの紅茶だった。それをすすって深く息を吐く。

「これだけ師団長の世話焼いてるんだから、私そろそろ昇格してもいいと思うんですよねえ」

 はあ、と右手を頬に添えながら大袈裟に溜め息をつくナマエに紅茶を吹いてやろうかと思った。そんなことで昇格できるなら誰も苦労しない。さっさと行けというふうに手を振ると、ナマエは足元に落ちていたシーリングワックスの蝋を拾ってそっと机の上に置いた。
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