「ねえジャン、海に行こうよ」

 まだ夏には程遠い土曜日。連絡もなしにナマエが俺の家に訪ねてきた。こうして突拍子もないことを言うのは今までにも何度もあったけれど、さすがに今回は不審な顔を隠すことはできなかった。

「お前海って、何考えてんだよ」
「だって行きたくなっちゃって。ひとりで行くのはさみしいから」
「さみしいって、時期考えろよ。まだ寒いっつーの」

 寒さは緩んできたとはいえまだ長袖が手放せない。今だってナマエも俺も、薄手のカーディガンを羽織っていた。しかも今は昼の3時半を過ぎたころで、そろそろ冷え込んでくる時間帯だ。下手すると風邪を引く可能性だってある。しかしナマエは諦めるつもりはないらしく、早くしろと俺を急かしてくる。しばらく行く行かないの押し問答が続いたが、玄関先で立ち話を続けるのもなんだし、家の前を歩く人たちからの視線に耐えられなくなって仕方なく家を出ることにした。別に痴話喧嘩じゃねえし見世物でもねえからさっさとどっか行け特にそこの小学生のチビ2人組。ぎろりと睨んでみせるとぴゃーっとそろって逃げ出した。ナマエが「ジャン犯罪者みたいな顔」と言うのでグーで頭を殴っておく。一度部屋に戻って、財布やら携帯やら必要なものをジーンズのポケットにねじこむ。また階段を下りて玄関の扉を開けると、門のところで座り込んでいたナマエが笑顔で振り向いた。こいつのこの笑った顔を見ると、なんかどうでもよくなってくるから不思議だ。

「土手をずっと行ったところの海がいいな」
「なんでまた海なんか」
「ジュースおごってあげるから!」

 別に俺はジュースにつられたわけではない。ナマエはわりとふらふらとしていて、風船みたいにどこかに飛んで行ってしまいそうなことがある。だから監視役としてついていくんだ、監視役。本当はジュースよりアイスのほうがいいがさすがに海でアイスはつらいのでやめておく。
 家からあまり離れていない場所にあるコンビニで、ナマエは本当にジュースをおごってくれた。めずらしいこともあるもんだ、いつもは俺にクレープおごってだの31おごってだの言っているのに。サイダーを飲む俺の横で、ナマエはちびちびとミルクティーを飲んでいた。紙パックに入っているそれはナマエのお気に入りのもので、学校でもよく飲んでいるところを見かける。ペットボトルとは違ってふたを閉めることができないからこぼすなよというと、そんな子供じゃないと怒られた。5回に1回こぼすのがお前だろうが。
 川沿いの土手を並んで歩く。この時間は散歩をしている人が多いらしい。親子連れや老夫婦、カップルが多く見られた。こうしてると俺とナマエもそういうふうに見えたりするんだろうか、とかバカみたいなことを考えてしまった自分に引いた。何考えてんだ俺。ナマエはここの土手がお気に入りらしく、たまにここに来て芝生の上に座り込んでじっと川の方を眺めている。向こう岸には背が高い建物が多い。とてもいい景色とは言えないけれど、こいつはこの景色が好きらしい。川の水面に太陽の光がきらきらと反射している。しばらく無言で川を眺めたナマエは、満足したように息を吐いて「行こう!」と俺の手を引いた。海は逃げねえから落ちつけよ。


 * * *


 海は静かに押しては引いていた。穏やかな波を見てナマエははしゃいでいるようだった。履いていたぺったんこのパンプスをポイポイと脱ぎ捨てて、躊躇いなく水の中に足をつっこんでいく。ミルクティーの紙パックは通ってきた道沿いにあった公園で捨ててきた。ばしゃばしゃと水しぶきが上がって、ナマエの細い足が濡れた。

「おい服濡れるぞ」
「へいきだよー」

 くるんくるんと回ってまたばしゃんと水面を蹴る。きっと水は冷たいだろうに楽しそうで何よりだ。何を思って海に来たいと言ったのか俺にはさっぱりわからなかったが、楽しそうなナマエを見ているとそんな小さなことはどうでもよく思えた。海の向こうには何も見えなくて、ずっと水面と空が続いている。太陽が少しずつ沈みだしていて、空の色は薄くなってきていた。今日は風がないように思えていたけど、やはり海に来ると潮風が強かった。ナマエの短い髪が潮風でふわりと持ち上げられ、表情を隠す。見えない、と俺が呟きそうになると、ナマエは太陽を背にこちらを振り向いて、揺れる髪を手で押さえて笑った。逆光で見づらいけど、たぶん、笑ったんだと思う。へったくそな笑い方だった。

「やっぱりまだ寒いね」
「当たり前だろ、風邪ひく前に出てこい」
「今日ね、ジャンがいなくなる夢を見たよ」

 またナマエは俺に背を向けて、ぱしゃりと水を蹴る。淡いミントグリーンのワンピースが風でぶわりと持ち上がった。おいパンツ見えるぞ。そういってもナマエはこっちを見ることなく、うつむいてしまった。淡くオレンジ色に染まりはじめた空と海と、あいつの姿はなんだか見惚れてしまうくらい綺麗だった。

「たかが夢だろ」
「たかが夢されど夢。昨日も学校で会ったのに、そのせいでジャンの顔見なきゃ! って思って、で、夢でジャンは海に還るって言ってて、こいつなに言ってんだって思った」
「なんだそれ」
「ジャンくっさいこというから気持ち悪かった」
「沈めるぞ」
「道連れにしてやる」

 ふふふ、とナマエは笑ったらしい。やはりこちらには顔を向けないからわからないけど、きっとさっきみたいに下手くそな笑顔を浮かべているんだろうと簡単に想像できた。いつもはバカみたいに口をあけて笑っているのに、そんなくだらない夢を見ただけでなんなんだ。俺はここにいるだろ、海に還るってなんだよ俺は魚かなんかか、いつも馬面馬面ってバカにしてくるくせに。そうして悪態をついてやりたかったが、海と空とがとても似合っているナマエのうしろ姿を見ていると、言葉なんてなんにも出てこない。
 海から上がってきて、ナマエは脱ぎ捨てたパンプスを手に持って裸足のまま砂浜を歩く。俺もなんとなくそのうしろについて歩いた。さっきの弱々しい笑い顔は消えていて、気分がいいのか鼻歌を歌っている。ナマエの好きなバンドの、一番好きな歌。あ、今のところ、お前が何回も歌うから歌詞覚えちまったんだぞ、俺。ナマエの鼻歌に合わせて無意識に歌いそうになって唇を噛んだ。また潮風があいつの短い髪をふわりと揺らす。さらりと流れる細い髪に触れると、ナマエが不思議そうな表情で振り向いた。そのとき俺は気付いたのだ。
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