彼について知っていることはみっつだけ。男子バレー部で、勉強があんまり得意じゃなくて、少し口が悪い。放課後、体育館でバレー部の人に「ボゲェ!!」と怒鳴っているのを見たことがある。自分が怒鳴られたわけでもないのにめちゃくちゃ怖くて、目つきがあんまりよくないことも相まってとても苦手だ。授業中よく寝てて、私は彼の隣の席だからいつも起こそうかどうか迷いつつも結局そのままにしてしまうことが多い。別に彼の成績がよくても悪くても私には全く関係ないし他の子たちだって起こす素振りを見せないし、私は悪くない悪くない。

 だから影山くんが放課後居残らないといけなくなったのは私のせいじゃないし、恨むなら授業中寝てしまった自分と居残りを命じた先生を恨んでほしい。とは言いながらも話したことがない私に八つ当たりすることなんてないと思うんだけど。
 きちんと授業を真面目に聞いてノートも取って居眠りもしたことがない私が何故影山くんと一緒に居残りをしているのか。答えは至って簡単、点数が悲惨であったからだ。どれだけ授業を真面目に受けてもどうしてか成績には反映されず、毎回定期テストでは赤点ギリギリの点数を取っている私が、抜き打ちのテストで合格点を取れると誰が思っただろうか。テストが始まる前には友人がにやけた顔で私を見てくるし、授業が終わったあとの休み時間にはわかっているくせに「どうだった?」と聞いてくる始末。抜き打ちテストはその日のうちに帰ってきて、30点以下は放課後同じ問題を解いて、満点を取れたら帰っていいと言われた。教科書を見るのは許可するが誰かの答えを写すのは禁止とも。いやいやいや勘弁してくださいよ先生、私今日帰ったらごはんまで昼寝する予定だったんですけど。まあ抜き打ちだし5人くらい居残りいるだろ、と思っていたのだが案外みんな出来がよかったようで、私を含めて3人しかいなかった。何故。絶望に満ち溢れた私の表情を見て友人はゲラゲラと笑い、さっさと帰っていってしまった。友情なんて脆いものである。ていうか解き方教えてくれると思ってたのに裏切りか! 先生答え写すのはダメとは言ったけど教えてもらうのはダメとは言ってないだろ!

「俺終わったから帰るわ! お先ー」

 同じく居残っていた男子がさっさと問題を解いてしまったようで、野球部の名前が入ったエナメルバッグを肩にかけながら少し急ぎ気味に教室を出て行った。待って! お願い待ってほしい! ていうかなんでそんな早く終われるのか意味わかんないしなんで影山くんとふたりきりにするのこわい! やだもう帰りたい寝たい!
 ペンを握り直してプリントに目を落とす。けどわからないものはわからない。前半はわりと得意なのに、途中から入ってくる文章問題と後半のグラフ問題が厄介だった。非常に苦手な問題である。数学の教科書とノートをかばんから取り出してページをめくる。基本問題なら教科書に数式が乗っているだろうし、応用ならノートに書いている、はず。さっきも言ったように私は授業中寝るなんて失態は犯したことはないのだ。文章問題をなんとか解いて、プリントの右半分に書かれたグラフ表を睨みつける。二次関数ってなんだよ。空白のスペースに一生懸命数式を書いてどうにかこうにか最後まで終わらせた。職員室にいる先生に提出しに行こうと腰を上げる前に、ちらりと隣の席に座る影山くんを見てみる。ペンは動くことなく文章問題のあたりで止まっていた。私とおんなじじゃないか。なんだかちょっと親近感を覚えてしばらくそうしていると、私の視線に気付いたらしい影山くんとばっちり目が合ってしまう。ひええと情けない声が出そうになるのをなんとか堪えた。
 しばらく無言で見つめ合っていると、影山くんが「終わったのか」と言った。話しかけられたことに若干感動しながらも小さくうなずいてみせる。すると彼はペンをくるりと1回回して、眉間のしわを濃くした。目つきが悪い。

「悪いけど、あとでこの問題教えてほしい」
「えっ」
「あ、先提出してきていいから」

 私が勉強を教える。なんて恐れ多いことだ。だいたい赤点ギリギリの私に勉強を教えてもらうなんて影山くんは何を考えているんだろう。とりあえず急いで立ち上がって教室から出ていき、走って職員室に向かう。数学担当の先生に押し付けるようにプリントを提出して、丸つけをしてもらっているあいだはどこか落ち着かなかった。

「惜しいなー2、3問間違えてる、やり直し」
「ゲッ」

 教科書を見ながら解いたけど一発で全問正解とはいかなかったようで、またプリントを渡された。だけど不正解だったのは前半の基礎問題で、どうやらいろいろと動揺してケアレスミスをしてしまったらしい。これならすぐ帰れるな、と安心しながらまた走って教室まで戻った。部活動に入っていない私に体力があるわけがなく、ちょっと走っただけで息が上がっていた。特に階段を駆け上ったのは体力的にも身体的にもつらくて、息はうまくできないわ膝が痛いわ、もう年かもしれないと体力不足を呪った。昨今の若者は体力がないのである。

「……なんでそんな走ってんだ」

 あんたを怒らせないためだよ! とはさすがに言えないので「は、はやくかえりたくて」と息絶え絶えで答えておいた。握り締めたせいで少ししわが寄ったプリントを机の上で伸ばしながら再び椅子に座ると、影山くんが私の手元を覗き込んだ。そこまで広くない教室に並べられた机と机は距離が近くて、簡単に私のプリントを見ることができる。こっそりと影山くんのプリントを見てみると、グラフ計算は解いてあって、残りは文章問題だった。どうやらそれが苦手分野らしい。私もあんまり得意じゃないのに、大丈夫だろうか。もし間違えた答えを教えたら「ふざけんなボゲェ!」と怒鳴られて胸倉つかまれたりするんだろうか。想像するだけで震え上がるんですけど。私もう明日から学校来れない。ガクガクと震える私のことなんて知る由もなく影山くんはまたペンをくるりと回した。

「文章問題解けてんなら教えて」
「わっ、私もあんまり得意じゃなくて、あの、教科書見てもらってもいいですか」

 ギャー声裏返ったはずい! わたわたと自分の教科書を半ば押し付けるように渡して、影山くんがそれを眺めているあいだに間違えていた基礎問題を解いていく。ここは1回目の時点でもう正解していたし、少し悩んだもののなんとか解き終えた。このタイミングで提出に行くのはよくないな、と判断して隣に視線をやると、公式を見つけられたみたいでペンを握って書きこんでいた。念のためにノートも開いておく。

「ここってどの数字代入すればいい」
「は、はいはい。……あ、これ式はあってるけど代入するところ間違ってるよ。3はこっちじゃなくてこっちで、かわりにここが8で」
「あー、なるほど。だからずっと解けねえんだ」

 お世辞にも綺麗とは言えない字がどんどん書きこまれていく。授業中寝てはいるもののなんとなくわかっているようで、私がそれだけ言うと自分でほぼ解いてしまった。たまにxとyがごっちゃになってyの解がふたつあるとか間抜けなことをやらかしていたけど、しかもそのときにちょっと「どういうことだオラ」と低い声で呟かれたものだから死にそうになったけど(独り言だったらしい)、問題をすべて終わらせたら眉間のしわも消えていて、別に何かしたわけでもないのにほっとした。

「お、なんだ影山、早かったな。もっとかかると思ってたのに」

 ふたりで職員室まで提出しに行くと、先生は失礼極まりないことを言った。先生怒らさないで!! とひやひやした私の心配をよそに、影山くんはハアと気の抜けたような返事をした。そ、そうかさすがに先生相手にボゲェとか言わないよね。一安心一安心。
 影山くんはひとつふたつ回答を間違えていたようだけど、ペンと消しゴムを持参してきていたのでその場で直して解放された。私も続いて丸つけをしてもらって、「苗字はこんな凡ミスがテストじゃわんさかあるからなあ」と言われ自覚があるだけに少しヘコんだ。まだ高校生になったばかりとは言えども成績は受験や就職に響くらしいし、塾でも入ったほうがいいのかなあと悲しくなる。お金かかるし自由な時間はなくなるし、それだけは勘弁してほしい。100と大きく書かれたプリントを持ってそろって職員室から退室すると、大きなため息が漏れた。なんかこの30分ちょっとでひどく疲れた気がする。
 教室までの道のりをなんとなく影山くんと歩いていると、「助かった」と急に言われた思わず立ち止まってしまった。振り返ると影山くんの目線と私の目線は同じところにあった。階段2つ分の差。そういえば背高いよなあ、さすがバレー部、と納得しながらぎこちなくうなずいておく。私の反応を見て影山くんは満足したようで、また階段を上り始めた。追いかけるようにわたしも階段を上って教室に入り、机の横にかけられたかばんの中にプリントとペンケースを詰め込んで、携帯の通知ランプがちかちかしていたのでチェックした。なんてことないメルマガと、絶望する私をほくそ笑んでみていた友人からのメール。終わった? というそのメールはつい5分ほど前に来ていて、今終わったから帰る、と返信を打って携帯をポケットに入れた。

「俺、なんか苗字にしたっけ」

 あ、今私の名前呼んだのか、と理解して、それから何を言われたのか脳内で再生して、言われた意味を理解して、思わずハ? と間抜けな声を出してしまった。影山くんはエナメルバッグを肩にかけていて、今から部活行くんだろうなと考えて、それから思いっきり首を横に振った。とんでもない、私が勝手に苦手意識を持っているだけである。何か勘違いをしてしまっているようだ。誤解を解こうにも何をどういえばいいのかわからない。怖いから苦手です、目つきが悪いから苦手です、どれも失礼すぎるだろ。

「なんか避けられてるっつーか、ビビられてる気がして」
「ウッ、や、あのなんていうか」
「でもろくに話したことねーのになんでだろうなと思って」

 たしかにその通りなんですゴメンナサイ。めちゃくちゃ気まずくて私は出来ることなら今すぐこの世から消えてしまいたいし窓から中庭に飛び降りてそのまま走って帰りたい。残念ながら教室は3階にあるしもしそんなことをしようものなら、私の両足はぼっきり折れてしまうだろう。別に影山くんの表情は怒っていないのに、どうも申し訳ない気持ちになって土下座してしまいたくなる。スクールバッグのひもをぎゅうっと強く握るだけで黙ったままいると、「聞いてんのか」と影山くんに顔をのぞきこまれた。いつもは目つきが悪いし眉間にしわ寄ってるしで恐ろしくしか見えないけど、肌がすべすべで鼻も高くて、あ、よく見るとかっこいいんだなと思った。

「人の話聞けってよく言われてるよな、苗字って」
「ヒエッすみませんそのとおりです……」
「さっきから思ってたけどなんで敬語?」

 同級生だよな? と首を傾げる影山くんに言われて気付いた。何故敬語で喋っている私……! 威圧感があるものだからどうしても敬語になるんです、いや言えるかよ。ていうかなんで私がよく話聞いてるのかって怒られてること知ってるんですか……恥ずかしすぎるんですけど……穴が入りたいってこういうことか。体育館から聞こえる運動部の声、どこからか届く生徒の話し声、学校の近くを通る車のエンジン音、いろんな音が聞こえてくるけど私も影山くんも無言で、早く部活行ったほうがいいんじゃないですかと言うべきか言わないべきかひたすら迷う。だって嫌味っぽく取られたくないじゃん。怖いじゃん。

「別に取って食いやしねーんだから、普通にしてくれていいのに」
「こ、心掛けます」
「敬語」
「うっ、気を付けます、……る」

 ビビりすぎだろと言われてしまって顔が熱くなった。自分でもそう思う。でも結構いい人だ。軽く肩の力を抜くとさっきよりちょっと余裕ができて、影山くんと目が合わせられた。まだ緊張はするけど、もうあんまり怖くないし、だいじょうぶだいじょうぶ。早く帰って昼寝しよう、今から帰って着替えてからでも十分眠れるし。部活に行く影山くんと玄関まで一緒に行って、第二体育館の近くでバイバイと言って別れた。別れの挨拶までできるとは、この数十分で私すごい成長したんじゃないだろうか。なんてことを話してもきっと友人にはどうでもいいと鼻で笑われるのである。私にとっては大きなことなのだ。明日から授業中寝てたら起こせるかもしれない。勇気を出してみようと意気込んで、第二体育館を振り返る。男子バレー部員の声が上がって、ボールの弾む音が何度も聞こえた。部活っていいなあ、青春だなあ。私もなんか部活入ろうかなあ、あっやっぱり無理だそろそろ暑くなるし。無理はよくない。ふわあとあくびをして、ポケットの中で震えた携帯をチェックする。「まだ帰ってこないなら小麦粉買ってきて」私に昼寝をさせてお母さん。
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