「あかあし! あかあーし!」

 ぴょんぴょんとうさぎのように飛び跳ねながら名前を呼ぶと、ずっと上のほうから見下ろされた。相変わらずやる気のなさそうな目である。

「なんですか苗字さん、今の木兎さんみたいな呼び方」
「光太と間違って構ってくれるかなって真似してみた! 似てた?」
「はあまあ似てたんじゃないんですか」
「テキトー! なにそれちょうテキトーじゃん!」
「何か用ですか」
「特になにも! 見かけたから声かけただけ〜」

 ちょっとくせのある髪を撫でてやろうと手をのばすと、さりげなく避けられた。やだもう傷ついちゃう。なんていうのは嘘で、いつものことだから慣れてしまった。彼はドライな性格なのである。わたしは彼のそういうところが好きだ。制服の袖から覗く、細いけれどしっかりと筋肉のついた二の腕がたまらなく愛しい。いつも触りたいなあと思うのだけど、さすがにそんな勇気はなくて触れたことはない。というか、肌同士で触れ合うことって、結構親密な関係じゃないとできないと思う。だからわたしは常に布越しでしか彼に触れられない。だって恥ずかしいもん。

 赤葦くんはわたしが持ったものを一瞥して、「次移動ですか」と表情を変えずに訊ねてきた。でかでかと化学と書かれた教科書。あんまり好きな教科じゃないし、だから折り目も他のクラスメイトのものと比べて少なめだ。どうしても眠くなっちゃうし、起きてても言ってることよくわかんないし、中学校のときの理科の授業は好きだったのになあとうんざりする。葉緑体とか双子葉類とか、あのあたりめちゃくちゃ得意だったのに。分子だ原子だ化合物だ、頭がおかしくなりそう。おかしいから理解できないんだけど。

「化学室でお昼寝の時間です」
「今朝の10時前ですけど」
「細かいことは気にしちゃダメだよ、ハゲちゃうよ赤葦くん」
「ご心配ありがとうございます、では」

 ストイックー!! すたすたと廊下を歩いていってしまう赤葦くんを引き留める理由は何もないんだけど、名残惜しくて待ってとカッターシャツの裾を引っ張ってしまう。赤葦くんはまた同じようにわたしを見下ろして、ふかーく溜め息を吐いた。休み時間だってそんな長いわけじゃないんだから、さっさと化学室に行けばいいのに。だけどわたし的に授業なんかより赤葦くんのほうが大事なのだ。彼の中ではきっと、授業のほうがずっと大切なんだろうけど。当たり前か。

「お友達に放っていかれますよ」
「先に行っててって言ったから平気だよ」

 お世辞にもパッチリとはしていない瞳をじっと見つめていると、大きな手のひらがわたしの頭の上で弾んだ。わー、男の人の手だ。わたしより年下なのに、わたしの手より大きい。その親指はこしょこしょと髪をくすぐる。お、おおお、どうした赤葦くん、こんなこといつもしないのに。すごい恥ずかしくなってきてうつむいて自分のつま先を眺める。足も、わたしのほうがちいさい。こういうのを見ると、わたしは女で、赤葦くんは男なんだなあと再認識する。やっぱり運動してる人ってしっかりした体をしてる。照れ隠しにもじもじと指先の爪をいじっていると、「ナマエなにやってんだー!」と大きな声が聞こえた。ウーン助かったようながっかりしたような! 頭に赤葦くんの手が乗っかったまま振り返ると、わたしと同じ教科書を持った光太がいた。わたしと光太は小さいころから近所に住んでいて、赤葦くんと光太は同じ男バレ部で、それがきっかけで話すようになった関係である。光太がいなかったらきっとこうして赤葦くんと仲良く話すことがなかっただろうからありがたいといえばそうなのだが、結構空気が読めないことも多い。たとえば今とか。今めっちゃいい雰囲気だったって、自分でも思うくらいだったんだけど。そして相変わらずうるさいしデカイ。

「化学室行けよー! 赤葦も何やってんだー!」
「特になにも」
「光太うるさい」
「うるさくねーよ! なあ赤葦!」
「木兎さん空気読んでください」

 ギャーギャーといつまでも子供みたいにうるさい光太に嫌味のように耳をふさいで顔を背ける。赤葦くんにまで空気読めとか言われるとか光太相当じゃん。
 あんまりに光太がうるさいせいでまわりからじろじろ見られる羽目になる。しかも背が高いから目立って仕方がない。赤葦くんも背が高いけど、光太は彼よりまた少しでかいから。男の子は背が高くなるからうらやましい。わたしの頭の上で交わされる会話を聞きながら、はてとさっきの赤葦くんの言葉を思い出す。空気読んでくださいってあれ、どういう意味だ?

「どうしたーナマエ。腹痛いか?」

 黙り込んでしまったからか光太がかがんでわたしの顔を覗き込む。びっくりして思わず顔の中心をパーで叩いてしまった。ベッフと謎の声を上げて光太は両手で叩かれた部分を押さえてわたしから顔を背けた。教科書やペンケースがバラバラと床に散らばり落ちる。普段ならなにしてんのー! と叱ってやるところだけど、今回はわたしが悪いので謝りながら拾ってやる。あっバッカ光太数学のノート持ってきてる。ぷくすーっ。

「ふたりとも、チャイム鳴りますよ。俺も遅刻したくないんでさっさと行ってください」
「ナマエのせいで赤葦に叱られた!」
「別に叱ってはないでしょう」
「つーか顔面いてえ! 理不尽!」
「ごめんって言ったじゃん光太しつこい。ハゲて」
「ハゲねーよ!」

 シッシとあっち行けというふうに赤葦くんに手を振られた。たしかにもうあとちょっとで授業開始を告げるチャイムが鳴ってしまう時間だ。名残惜しくてもバイバイしなければいけない。光太の教科書を赤葦くんから受け取り、ノートとペンケースと一緒に光太に渡した。ぱすんぱすんとかかとを踏みつぶした光太の上靴がうるさい。持ち主に似たんだろうか。じっと足元を見ながら笑っていると、わたしの肩にあの大きな手のひらが乗った。振り返ると思った以上に近い場所に赤葦くんの顔があって、息が止まってしまいそうだった。

「木兎さんの真似なんかしなくても、ちゃんと相手しますから」
「へ、」
「むしろ名前で呼んでくれてもいいんですけど」
「なま、え、あかあしくん?」
「それは苗字ですね」

 そう言ってまた私の頭をぽんぽんと撫でて、「じゃあ」と背を向けて、2年生の教室がある方向へ歩いていってしまった。え、なんだろういまの。幻聴かと思ったけどわたし別に疲れてないもんな。予想外の出来事すぎて手に力が入らなくなって、バサバサと教科書たちが落ちてしまった。ずっと先を歩いていた光太が物音に気付いて振り返り、「お前なにしてんだよ!」と呆れたような顔になった。ぐっ、光太に呆れられるとかわたし相当じゃないか。急いで拾って駆け出す前に恐る恐るうしろを見てみると、自分の肩越しにわたしを見つめる赤葦くんがいた。ちいさく笑ってる。何を言うでもなくそのまま立ち去っていって、わたしのこのやり場のない感情はどうすればいいのやら。名前を呼ばれて慌てて駆け寄ると、光太はきょとんと首を傾げた。

「お前、なんでそんな顔真っ赤なの」

 言われてバッと顔を上げ、すぐにそっぽを向いて「見んな!」と背中を思いっきり叩いてやった。イッテエ! と大げさに痛がる光太はそれでもめげることなくまた私の顔を覗き込む。

「耳まで赤いけど」
「走ってるせいだから!」
「そんな長距離走ってねーだろー」
「もー光太うるさい!」
「お前俺にそればっかりだな!?」

 そんなことを言っていると授業開始のチャイムが鳴ってしまったものだから、わたしも光太も慌てて足を速めた。化学室は3階にあるから景色がよくてよく眺めているけど、今日ばかりはそれを呪った。部活に入っていない運動不足のわたしには階段を駆け上ることは非常につらい。2段飛ばしで上っていく光太が憎い。これだけ息が上がってれば、化学室で友達にも顔が赤いことを変に思われなくてすむなあきっと。またあの言葉を思い出して顔の温度が上がる。だめだ、わたし今日死ぬかもしれない。




・企画サイトcinemaさまへ提出
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -