どこかつかめないやつだ、というのが彼女に対する第一印象で、その印象は未だ変化していない。笑ったりすることはあるけれど基本的に表情を変えることがなく、座学や技巧などの成績がそれなりに上位で、それだけではなく立体機動や対人格闘、馬術など体を使う訓練の成績も申し分ない。容姿はというと突出して目立つわけではないが、愛想はいいし勉強もわかりやすく教えてくれるし、あまり嫌われていない、むしろ好かれているほうだと思う。しかしその何でもそつなくこなしますという感じが、ジャンはあまり好きになれなかった。人によく見られたいがために、というように思えて仕方がない。こんなことを誰かに話すと、絶対に妬んでいると思われるので言わないが。

 そんな彼女、ナマエとはあまり当番がかぶることがなかった。それはジャンにとっては喜ばしいことだった。にこにこと作ったような笑顔を浮かべながら同期と言葉を交わす彼女を見ると、どうも虫唾が走る。そして自分がこんなに人に対して嫉妬するやつだとも思ってなかったので、そこにもイライラして仕方がない。外はもう真っ暗な闇に包まれていて、食堂に残っているのは食事当番であり片付け当番でもあるジャンたちだけだ。その中にはナマエも含まれていて、なんとも複雑な心境である。

「なあジャン、俺たち食堂掃いてるから、食器片付けてもらえるか」
「おー」

 食堂と調理場がつながる出入り口からひょこりと顔を出すサムエルに、ジャンは背中越しに返事をした。頼んだぞーという声のあとに、遠ざかる足音が響いた。そしてそこで気付いた、調理場に残っているのは自分とナマエだけであることに。決してナマエに何か気に障るようなことをされたわけではない。ないのだが、苦手意識を持っている相手とふたりきりというのは気まずい。ナマエはジャンに嫌われていると気付いているのかは不明だが、なんだか悪いことをしたような気分になってそわそわしてしまう。

「ジャン、私が食器を拭いて棚に片付けるから、洗ってもらえるか」
「……おー」

 ジャケットを近くの木箱にかけて、ナマエは清潔な布巾を手に取る。そこ普通逆じゃねえ? という疑問は口の中で消えた。同じようにジャケットを脱いで机の上に置き、濡れないようにシャツの袖をまくる。スポンジに粉末洗剤をかけて十分に水を含ませ、一度水につけた食器を洗っていく。すすいだ食器を積み重ねていると、ナマエが隣に立ってそれらを拭きはじめた。なんでよりによってとなりでやるんだよ。そこに食器を置かれるのだからそこでするのは当たり前なのだが、理不尽なことを言っていないとこの気まずい雰囲気に耐えられない。そう感じているのはジャンだけで、ナマエは明日の訓練内容はなんだっただろうかとか、次の休日には街に出て日用品を買いに行こうと考えながら黙々と食器を拭いているだけである。
 ごろごろごろ、と地響きのような音が響いた。ふと窓の外に目を向けてみたけれど、外は真っ暗闇である。そういえば夕方、雲が広がっていたことを思い出した。この様子だと夜中は大雨になりそうだ。地面がぬかるんで訓練ができないのではないだろうか。思わず溜め息を漏らすと、隣からガチャガチャと危なっかしい音が聞こえた。

「悪い、手がすべった」

 またも作ったような笑顔を浮かべ、ナマエは割れていないかと皿をあらゆる角度から眺める。さっさと洗って片付けて、さっさと宿舎に戻って寝たい。ジャンの頭の中はそれだけである。こうしているあいだに雨が降ってきたら、濡れて戻らなければいけなくなる。風邪をひくと訓練は休まなければならなくなるし、それは避けたい。洗う速度を上げながら、しかし丁寧に食器を洗っていく。スポンジのわしゃわしゃという音と、皿同士がぶつかる音だけが調理場に響く。食堂のほうからはサムエルたちが雑談で盛り上がっているようだ。誰かこっちこいよくそったれ、と舌打ちをしかけたとき。
 ピカッ、と空が光った。そしてまた隣からがちゃんと音が上がって、ナマエは肩を揺らした。また先ほどと同じように視線を向けると、少し引きつったような表情のナマエと目が合った。

「わ、わるい。うるさかったな」
「なんだお前、雷ごときでビビってんのか?」
「違う! 急に光るから驚いただけだ」

 ちょっとからかうつもりでそう言ったのだが、ナマエは思った以上にムキになっていた。これはもしかするともしかするかもしれない。ほんのりと頬を赤らめながら再び食器拭きに没頭するナマエにあっそ、と適当に相槌を打つ。それからドォンと大きな音が鳴った。わかりやすくナマエは体を跳ねさせ、手に取った皿を床に落としてしまった。ガッチャン! とこれもまた大きく音が鳴り、今度はジャンも肩を揺らす。

「おいどうした? 割ったか?」

 食堂のほうにも聞こえていたようで、サムエルたちが駆けつけてきた。幸い皿は割れてはおらず、しゃがんでいたナマエが立とうとするので彼女だけに聞こえるように「いい」とつぶやく。視線は向けなかった。

「わりい、ちょっとビビっただけだ」
「ジャンが落としたのか、めずらしい」
「俺だってバカやらかすさ。人の子だぞ」
「いつもならムキになってほっとけ! とかいうのがお前だろ」
「うるっせーよさっさと掃除終わらせろ。んで先帰れ」
「……どうした? 先に帰れなんてジャンらしくない、気持ち悪いぞ」
「サムエルてめえ、眉毛むしるぞ」
「じゃあ遠慮なく先に帰るわ! じゃあな!」

 むしるぞ、のあと食い気味にそう言い放ち、サムエルはいい笑顔を残して食堂のほうに消えていった。たっぷり数秒待ったあと、大きく息を吐く。皿を拾ったナマエは少し複雑そうな表情で立ち上がり、「悪い」とつぶやいた。いつもと違って弱々しい声だ。

「やっぱりビビってんじゃねえか、変に見栄張ってんじゃねえぞ」
「びっくりしただけだ!」
「空が光ったんだからそのうち鳴ることぐらいわかんだろ、苦手なら苦手って言え」

 友人であるマルコからも「その目つきの悪さどうにかしたほうがいいよ」と言われる目でナマエを睨んだ。ぐっと言葉に詰まったように黙ってしまう。皿のふちを指で撫でながら、しばらくして「……誰にも言わないでくれ……」と喉の奥から絞り出すような声で言った。おい待てよこれぱっと見俺が脅してるみたいじゃねえ? ジャンに疑問に答えてくれるものは誰ひとりとしていない。

「頼む! 苦手なものは雷だけなんだ! 情けないやつだと思われたくない気持ち、お前ならわかるだろ!?」
「知るかよなんで俺ならわかるんだよ! どっからその自信が来るんだよ!」
「いやだって無駄に意地張ってそうだから」
「てめえ表出ろ!」

 バンと強くそばにあったテーブルを叩きつけると、ナマエは何を怒っているんだというような顔をする。悪気はないみたいだが、それが余計にたちが悪い。しかも悪気がない相手を頭ごなしに叱るというのもひどい罪悪感に襲われるので、ジャンはぎりぎりと唇を噛んだ。また空がぱっと光って、少ししてからごろごろと低い音が鳴り響く。ひいっと情けない声を漏らすナマエがジャンの袖を握って、「ご、ごめん」とすぐに手を離した。

「お願いだよえーっと、ジョン?」
「ジャンだよ!」
「ジャンか! 明日のパンでもなんでも譲るから黙っててもらえないか」

 両手を顔の前で合わせて頭を下げるナマエ。人の名前を堂々と間違えておいてなんとも厚かましいやつである。訓練兵というのは育ち盛りの年ごろの子供ばかりであり、もちろんジャンもそのうちのひとりに入る。贅沢を言ってはいけないということはわかってはいるが、腹が減るものは減る。この食糧難の時代、食事を譲ってもらえるというのは役得かもしれない。―――と、ほだされそうになったのは一瞬である。とまっていた手を再び動かし、残っている皿をスポンジでひたすら洗う。

「訓練があるんだからメシはちゃんと食え」
「……案外まともなことも言うんだな」
「バラされてもいいってことか?」
「言わないでくれるのか!?」

 それはもうわかりやすく表情を明るくしたナマエは、勢いよく腕をつかんでくる。こっちは洗い物をしているのだ、勘弁してほしい。おかげで泡がまわりに散ってしまった。これを放っておくと水あかになって掃除が面倒くさいのに。そういう意味を込めて睨みつけると、どうやら通じたようで距離を取った。雷が鳴ったときの弱々しい反応はいったいどこに行ったんだ。とりあえず雨が降る前に戻りたいんだ俺は。返事はあえてしないで皿洗いを続けていると、ナマエも隣に並んで泡も洗い流した皿を布巾で拭きはじめる。ふんふんと調子はずれの鼻歌まで歌いだす始末だ。この出来事でジャンは一気にナマエに対する苦手意識が強まった。こんなことで距離感が縮まったとかいうやつは頭がおかしい。だいたいこんな奴と距離感が縮まったところで何もいいことはないのだ。あと少しですべての皿を洗い終えるというころ、外から雨音が聞こえ出した。ほらみろ、最悪だ。





 大雨の中走って帰ったので宿舎についたころにはびしょ濡れだった。風邪でもひいたら訴えてやる、と思って眠りについたのだが、いつも通りの健康体である。それはナマエのほうも同じようで、食堂に行くとライナーとベルトルトとなにやら話をしていた。いつもとかわらない違和感のある笑顔だ。思わず眉間にしわがより、それを見ていたマルコに「ジャン、目つき」と叱られた。理不尽である。

「ナマエを見るとどうも悪くなるけど、何か理由でも?」
「あいつの顔が好きじゃねえ」
「それ、本人に直接言うなよ」

 たぶんマルコは意味を履き違えているのだろうが、訂正するのも手間なので何も言わなかった。そのままナマエたちのそばに歩み寄り、「よお」と一応挨拶をする。

「ああジェン、おはよう」
「ジャンだぞナマエ」
「おっと悪かった、ジャンおはよう」
「よおナマエ、昨日は大丈夫だったか?」

 夜眠れなかったんじゃないか。嫌味のつもりで見下ろしながら言ってやると、しばらく黙ってジャンを見つめたあと、「何のことだ?」とナマエは首を傾げた。俺が聞きたいと言ったライナーに同意するように、ベルトルトも首を縦に振る。

「ここで言っていいのかよ」
「ああ、当番のあと濡れて宿舎に帰ったからか? それなら大丈夫だ、きちんと体を拭いてから眠ったしな」
「ジャンお前、人のことを気遣うってことができたのか」

 ものすごく意外だというふうに目を見開くライナーがとんでもなく失礼である。これは怒ってもいいのではないだろうか。その前に、ナマエである。昨日のあの怯えようが嘘ではないのかと思うくらい飄々としているし、しかし言わさねえと言わんばかりのオーラを放っている。ライナーとベルトルトがマルコと話をしはじめた途端、すさまじい勢いでジャンの二の腕をつかみ、本当にお前女かというくらいの力でぎりぎりと握りしめてきた。正直に言うととても痛い。

「人の弱点を言いふらそうとするのは感心しないな」
「てめえマジで猫かぶりだな……!」
「悪い印象よりいい印象を持ってもらいたいというのは当たり前だと思うんだ」
「バラさねえとは言ってねえだろ、言うも言わないも俺の勝手だ!」
「ミカサはどう思うだろうなあ」

 その言葉にわかりやすくジャンは体を固める。昨日雷に怯えていたナマエのことを笑えないくらいだ。そうしてにっこりと笑ったナマエの目は笑っていなかった。こいつマジだ。いやいつもの作り物みたいな笑顔よりはずっとこっちのほうがいいのだが、誰もこんな脅されかたをされるとは思っていない。マルコたちはいつの間にかパンとスープを取りに離れて行ってしまっていて、助けてくれる者はいない。災難だと頭を抱えて地に這いつくばりたい衝動に駆られるが、ナマエの手はそれを許しはしないとばかりにだんだんと力が込められていく。痣ができたらどうしてくれるのだろう。こんな結末は望んでいなかった。

「仲良くしような、ジャン」

 やっと名前を覚えたらしいナマエに、弱々しくうなずいてしまったのは仕方がないんだと後々ジャンは語るのである。




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