調査兵団本部裏。特にそこに何かがあるわけでもないけれど、ふらりと足が向いていった。ざりざりと砂を踏むたびに音が鳴る。今日は雲ひとつない快晴だった。こんな世の中だけれど、こういうときはすべてを忘れてのんびりとすごせるような、そんな気になったりする。まあ、数日後には何度目かの壁外調査が控えているのだけど。その角を曲がると、たまに洗濯をしに誰かが来る程度で、あまり人通りのない場所がある。そこは静かでミケの気に入っている場所だった。分隊長という立場になってから、何かと仕事が増えた。責任というものが常にのしかかってくるし、やはりどこか息苦しかったりする。今日も先程まで書類と戦っていたところだ、少しくらい休憩したって構いやしないだろう。そう思いながら角を曲がると、地面に仰向けに倒れている兵士がいた。その兵士の腹の上には、白い毛に黒縁がいくつか入った野良猫が乗っている。気持ちよさそうに目を細めていて、その猫の背中を兵士がとても優しい手つきで撫でていた。猫が逃げないようにそっと近付くと、寝転んでいる兵士が「あ」とこちらに目をよこす。

「ミケ分隊長、お疲れさまっす」
「ナマエか。汚れるぞ」
「平気っすよー、砂なんて払えば落ちますから」

 雑な敬語を使う彼女は、そう言って猫の喉を指先で撫でる。くあ、と猫はあくびをして、腹の上で思い切り伸びをした。芝生の上ならともかく、ナマエは一面砂の場所にごろりと寝そべっている。背中もおしりも頭も、きっと砂だらけになっているはずだ。しかし本人はまったく気にする様子もなく、左腕を頭の下に敷いて枕にし、心ゆくまま猫と戯れている。そんなナマエのそばにミケは腰を下ろして、彼女の頭をそっと撫でた。さらさらと茶色い髪が流れる。

「なんすか、私猫じゃないっすよ」
「その野良猫、どうしたんだ」
「んー、最近ね、よくここにいるんですよ。大変だったんすよー、ここまで来るの。最初は近付いてもくれないし、噛むし、引っかくしで」

 なあ、と猫に語りかけるけれど、言葉のわからない猫は瞬きを何度かするだけで鳴きもしなかった。そんな猫の耳のあいだを慣れた手つきでナマエは撫でる。それにつられるようにミケも彼女の髪をまた撫でた。心地よいのか、ナマエはそっとまぶたを下ろす。頬を撫でる風は気持ちがよくて、外で食事をとるのもいいな、と思った。とはいっても、いつもの固いパンと味のないスープなので味気ないものだが。猫は立ち上がってまたあくびをし、ナマエの腹から降りて、今度は彼女の顔のそばに移動し、顔をナマエの肩にぽすんと預けた。ヒゲが頬をくすぐり、ナマエは肩を竦める。

「くすぐったいよねこ」
「名前はねこなのか」
「そっすよー。それで十分じゃないですかね?」
「もう少し考えてやればいいものを」
「えー、じゃあ分隊長考えてくださいよ」
「……ブチ」
「センスないっすね」

 ふひひ、といたずらっ子のようにナマエは笑った。そのまま生物名で呼ぶよりはずっといいと思うのだけど、どうやらねこも気に入らないようでぶにゃーとなんとも不細工な鳴き声を上げた。野良のくせに厚かましいやつである。ミケが撫でようと手をのばすと、素早く猫パンチをお見舞いされた。ナマエ以外には懐いていないらしい。野良猫というやつはへんにプライドの高い生き物だ。引っかかれた手の甲には、じわじわと血がにじんできて赤い線が浮かび上がる。警戒したようにミケを睨みながら毛を逆立てるねこの背中を撫でて、ナマエはミケの手を取った。

「あーあ、嫌われちゃいましたかね」
「生意気なやつだ」
「私だって1週間通いつめてここまで来たんすよ、甘く見すぎっす」

 猫とか動物って、上から見下ろすんじゃなくて同じ目線になってやらないとダメなんすよね。
 傷ができた手の甲をねこを撫でるような優しい手つきで触るナマエは、起き上がってあぐらをかきながら、なんだかそれっぽいことをそれっぽい口調で言って、ジャケットの懐から小さな軟膏を取り出した。青いふたを開けて、白い薬をそっとミケの手の甲に塗っていく。もしかして彼女も、懐かれていないときに何度か引っかかれていたからこの薬を常備しているのだろうか。よくよく見てみると、ジャケットの袖から見え隠れする手首とか細い指先には、引っかかれたり噛まれたりした跡が残っている。ふん、と鼻で笑うと、「何笑ってんすか」と呆れたような表情で言われた。ミケはナマエの使う下手くそな敬語が好きだった。彼女はよく同期の兵士にその下手な敬語をどうにかしろとよく言われるらしいが、むしろミケはそのままでいてほしいと思っている。上官相手にきっちりとした敬語を使わなければいけないのは当たり前なのだろうが、少し雑いその言葉遣いで話しかけられると、距離が近いような感じがするのだ。だからミケは彼女にある程度心を許しているし、こうして寝転んだりして無防備にしているのを見るに、ナマエも自分に心を許してくれているのではないだろうかと思っていたりする。彼女もそれなりの期間兵士として勤めていた。団長であるエルヴィンや兵士長のリヴァイ、ときおり内地からやってくる憲兵団のお偉い方々にはきちんとした敬語を使えている。それだけでミケは十分じゃないかと思うのだ。自分以外にも分隊長という役職を持った者はいるが、その中で一番砕けた話し方をしてくれているのは、どこか特別な意味があるようで実は嬉しい。

「この軟膏効きますから。2日3日くらい塗っててください」
「これはお前のだろう」
「私はもう引っかかれないんでいらないっすー」

 ひらひらと手を振りながらナマエは立ち上がり、砂で汚れた頭や腰の部分を手で払う。ふるふると首を振る仕草が、猫そっくりだった。ミケも立ち上がって自らの汚れを払い、ナマエの背中の砂を落としてやる。ぱっちりと目を開いたナマエが首をひねって振り返り、ふひひ、とまた先ほどのような顔で笑った。この笑い方も好きだ。

「ミケ分隊長、ねこと仲良くなりたいなら1週間通ってくださいね」
「寝転んだほうがいいのか」
「そっすねえ、ミケ分隊長でかいっすから」

 私も話するときつらいんすよー、と冗談なのか本気なのかいまいち区別のつかないように言って、ナマエはミケが曲がってきた角のほうに足を進める。どうやらねことの戯れ時間は終わりらしい。懐かない猫とふたりきりですごす意味もないので、いや猫なのでふたりと表現するのはおかしいのだろうけど、ミケはナマエのあとをついていった。ねこはこの場所が気に入っているのか、ナマエが離れていっても追いかけたりしない。ナウ、とひとつ鳴き声を上げて、じっとその瞳でこちらを見つめていた。


 * * *


 以前来たときからしばらく日にちが開いたのでいるのかどうか不安だったのだが、相変わらずねこはあの場所でえらそうな顔をしてくつろいでいた。雑に積み上げられた古びた木箱の上で日向ぼっこをしているのか、いつかのように気持ちよさそうにゆっくりと瞬きを繰り返す。また引っかかれるかもしれないと思いながらそっと手をのばすと、びくりと体を揺らしたあと、渋々といったふうに触らせてもらえた。1週間どころか3日ほどしかここに通わなかったのだけれど、譲歩してくれるらしい。耳の付け根のあたりを撫でてやると、喉をゴロゴロと鳴らした。ふっと笑いを漏らすと、ねこはミケを見上げてきた。これはもしや睨まれているのでは。

「悪いな、あいつはもう来れないんだ」

 言葉は通じないだろうけど、ねこの不満げな顔を見てついそう言ってしまった。どうしてだと言わんばかりに尻尾で腕をしばかれる。今日も空は青く晴れていて、初めてねこと会った日のような天気だ。あのときと違う部分といえば、ここにナマエが寝転んでいないことくらいである。
 ミケは持参した固いパンを小さく千切ってねこの口元に置いた。ねこが食べるかどうかはわからないが、とりあえずと思って持ってきたのだ。ねこはふんふんと鼻を動かしてにおいをかいで、遠慮なく一口でパンを食べた。お気に召したのかもうないのかというふうに顔を上げる。ふんと鼻で笑ってやったあと、また同じように小さく千切って地面に放った。野良猫のくせに普段はどうやって食事をとっているのか疑問だが、まあそこは野良だ。うまく渡り歩いていろんな人からもらっているのだろう。
 時間をかけてパンをねこにすべて食べさせたころ、ミケはねこの胴をその大きな手でつかんで持ち上げた。暴れることなくねこは腕に収まり、ほっと安心する。ミケはねこを本部内で飼うつもりでいた。野良猫をあの狭い建物の中で囲うことはやはり窮屈だろうと思うけれど、どうしてもそばに置いておきたかった。ナマエがここにいたという証明にしたかった。ミケの個室に常にいろとはいわないし、好きなように出歩いてもいい。いつもねこを見て、ナマエのことを忘れないようにしたかった。腕の中でミャウと鳴くねこは、ナマエにもう会えないことはきちんとわかっているのだろうか。きっとわかっていないんだろうなあと思いながら、ミケはまた鼻で笑ってやった。すると尻尾で頬をべしりと叩かれる。悪かったと謝ってしまったのは仕方がない。分隊長とねこって結構似てますよね、人を小バカにしてる感じとか。あ、褒めてるんすよこれでも。そうやってナマエが言っていたのが懐かしい。またあの下手くそな敬語が聞きたい。女のくせに平気で人前であぐらをかく姿を見ていたい。ずぼらなくせに薬を塗る手つきが優しいあいつに、もう一度会いたい。
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