関ヶ原の戦い―凶星―【中編】 | ナノ


関ヶ原の戦い―凶星―【中編】




――人の縁、世の巡り合わせとは不思議なものぢゃのう、官兵衛殿……


 見慣れた筆跡を、焦りが滲ませ、緊張が掠れさせているのが見てわかった。

 書状の送り主がどんな気持ちでこれを記したのかに思いを馳せると、込み上げてくるものがある。

「……な、何て書いてあったんだい?官兵衛さん」

「まさか、いくら官兵衛さんでも今より悪い状況にはなんないよな!?」

「そりゃそうだろ、戦国最強の男が率いる徳川の軍勢と、伊達男が率いる奥州の軍勢にぐるりと城を包囲されて、援軍も来そうもねぇとか……今以上にまずい状況があるなら逆に教えて貰いたいぜ」


 戦々恐々といった面持ちの穴蔵時代から小生の下についていた仲間たちを見回して、小生は書状の内容をごく簡単に伝えた。

「……大坂城を、明け渡してくれないか、という話だ」

「城を、明け渡す……?」

「ああ、そうさ。まあようするに――無血開城、ってやつだな」

 城を包囲した軍がなぜ一気に押し寄せて来ないのか訝しく思っていたが、謎が解けた。恐らく今はまだ北条殿が引き留めてくれているからだろう。

 ちらり、と常通り無言で部屋の隅に立っている黒羽の忍を見やる。

 風切羽に書状を持たせて小生の元に送り、城を渡して降伏するように説得を試みるから、今しばらく攻撃は待ってくれと。

 今こそ恩義に報いる時だと張り切ってる姿が目に浮かぶな……。

「で、その申し出……官兵衛さんはどうするつもりなんだい?」

「俺はそれもありだと思うぜ、官兵衛さん。この戦況を覆すのはどう考えても無理だ」

「だよなあ……せめてここに凶王がいてくれりゃ……」

「おい、馬鹿……!」

「あ……悪ぃ」

 小生は軽く首を振り、「気にするな」と言ってやった。

 関ヶ原の西軍本陣が東軍により陥落、総大将・石田三成の生死は不明――その伝令を受けた瞬間は、確かに目の前が真っ暗になった。

 ぐっと拳を握ると、小生を繋ぐ鎖が、カチャリと硬質な音を立てた――こちとら夜伽の戯言のつもりだったのに、本気でまた枷をつけやがって……洒落のわからない奴だよ、まったく。

 ――だがこれは間違いなく、必ずここに帰るという三成との約束の証だ……そう悪い気はしない。

 おかげさまでということなのか、不思議と今小生の頭の中は冷静だ。自分でも驚くくらいにな……。

 北条殿の友情に深く感謝しながらも、小生は書状を少々荒っぽく畳み、懐にしまい込んだ。

「――返事はしない。東軍が痺れを切らすまでな」

「官兵衛さん、それじゃ……」

「北条殿のおかげでいい時間稼ぎが出来た。今の内に可能な限りの手を打つ。負傷者の手当てを済ませ、なけなしの軍備をかき集め――……あるいは今の内に白旗振って逃げ出すのもありだろうがね。

――お前さんたち、危険から逃げるのは得意だろう?」

 小生の言葉に、水面に石を投じたようにざわめきが広がった。

「仮に逃げ切れなくても、戦意の無い者まで皆殺しってことはないだろう……お前さんたちの敵が東軍で幸運だったな?」

 冗談めかしてそう言ってやると、強張っていた連中の顔がわずかに緩んだ。

「まったく……官兵衛さんはしょうがねえなぁ」

「忘れてくれんなよ、俺たちゃ逃げ足だけの黒田軍じゃないぜ?」

「ぶっ壊されたカラクリの修理、城壁の修復、仕掛けの設置……さあ、何から手をつけるんだい? 官兵衛さん」


 ――なあ、三成。凄いだろう?

 お前さんが穴蔵に送ってくれたおかげで、小生にはこんなに頼もしい仲間が出来たんだぞ。

 ……今、どこにいる?

 ……間違ってもその辺で勝手にくたばるなよ。

 ――帰って来い、三成。お前さんが帰る場所は、小生が守ってやるから……。



   ▲ ▽ ▲ ▽



「――大坂城への一斉攻撃が始まるまでそんなに猶予はないんだ……助けられるのは、あんたしかいな……くっ……!」

 ――私は食い込み引きちぎるほどの強さで前田の腕を掴んだ。

「ならば刃をよこせ……ッ! 憎むべき者に頭を垂れて降伏するくらいならばこの場に自刃するッ……!!」

「っ……馬鹿野郎……あんたが死んじゃなんにもならない……ッ!!」

 逆に掴まれ、そのまま先程まで横たわっていた場所に再び背中を押し付けられるように倒され、馬乗りになった前田に押さえ込まれた。

「……貴様……ッ」

「――家康に聞いたよ。あんた、官兵衛さんといい仲なんだろう……?
いい人を悲しませるなんて男のすることじゃないよ……!!」

「知ったような文言を吐くな……ッ!!
貴様などに私とあの男の何がわかる……ッ!?」


 ――失いたくない、と怯えながら、官兵衛はそれでも私を決着の地へと送り出した……何があっても貫けと言ったのだ。私の思いを、志を……。

 私を見下ろす前田は、一瞬はっと目を見開き、何故か苦笑を浮かべた。

「――俺にはわからない、か……あいつらにもよく言われてたな……」

「……?」

「いや、なんでもないよ――……けどあんたが官兵衛さんのことをちゃんと大切に思ってるんだってことは、よくわかった……きっと、あの人が幸せになれるのはあんたの隣だけだよ」

 だから降伏しろ、と重ねて要求して来るつもりだろうと睨みつけていると、にわかに前田は私の上からその身をどけ、押さえ付けていた私を抱き起こした。

「……俺にはあんたが命を棄てる手伝いは出来ないけど、生きて恋を貫く手伝いならしてやれるかもしれない……」

「……なん、だと……?」

 前田は真剣な顔付きで私を正面から見据えた。

「自分を殺すためじゃなくて、いい人を守るために使うんだって約束出来るなら、あんたの刀は俺がなんとかする。
――……戻ってやんなよ、大坂に」



   ▲ ▽ ▲ ▽



――さっき言ったように大坂城は今、大軍に完全に包囲されてるよ。

その前に、戦の跡を荒らしに来た野伏や追い剥ぎもわんさかいる。

一緒に行って助太刀してやりたいとこだけど……ごめん、こっちはこっちで今傍についててやりたい奴がいるんだ。どうやら一世一代の大失恋をしたみたいでさ……独りにはしとけないんだ。

……満身創痍のあんたに大坂まで辿り着けるかは正直わからないけど……それでも行くかい?



「――退け……貴様らの相手などしている暇はない……くッ……!!」

 新手を一刀の内に斬り伏せるも、私の膝は無様に崩れかかる。

 刃を抜く度に身体を蝕む激痛はひどくなる一方だ。

 私はそれに歯を食いしばって耐え、夜蔭の獣道を、西へ向かってひた走った。

 前田慶次――あの
婆娑羅者に如何なる心算があるのかなど知ったことではない。

 だが私の手には刃が戻った――まだ私には、戦うことが出来る。それが全てだ。今はその事実だけがあればいい。

 降伏によって魂を売ることも、自害によって命を棄てることもなく――私はまだ、私として生きている。

 あとどれほどこの身が保てるのかなど解り得ない――だが、今この身で為すべき事だけは把握している。

――何としても……大坂に。

 重厚な雲が星月夜を覆い隠し、漆黒の闇の彼方にいくら目をこらしても、まだ行く手に城郭の影は見えない。


 ――疾く駈けろ。

 ――一刻も早く。


 秀吉様の愛された城――いずれ天下の枢軸となる筈だったあの地を私は守らねばならない。


 ……だがあるいはそれ以上に、私は……。


 ――……官兵衛、貴様の命運は、まだ続いているか……?

 私がそこに辿り着くまで、待っていられるのか……?


 刹那、目の前に幾つかの影が飛び出した。また私を阻む者が現れたか……。


「――……そこの者、止まれッ!!」

「西軍の残党なれば、これより先へ通すこと罷り成らぬ……!!」

 私の行く手に姿を現したのは、葵の旗を掲げた兵の小隊だった。

 間違いなく目指す場所に近づいているのだと確信が芽生える。

 ならば、このような場所で足を止める道理などない。

 私は止まることなく駆けながら、刀に手を掛けた。

「――……っ」

 不意にぐにゃり、と視界が歪んだ。

 漆黒一色だった筈の視界が白く霞んでいき、あらゆる音が消失する。

 無理を通し、不安定な土台に積み重ねてきたものが、限界を迎えて刹那に瓦解していくのを感じた。


 ――私の体は、もう、保たないのか……?


 漆黒が戻り、音が戻った時、私の眼前には鉄の切っ先が迫っていた。

「ッ……!!」

 間一髪身を翻したが完全には避けきれなかったらしく、脇腹の辺りに焼けるような痛みを感じた。

「く……ッ」

 草の上に崩れ落ちた瞬間、手から落ちた刀がざりざりと砂利の上を滑り、遠くへと離されゆく――。

 掴み、引き戻そうと手を伸ばした瞬間、背に殺気を感じた。

「……私の邪魔をするな……ッ」

 身体を反転させ、打ち落とされる刃を鞘で受け止め、弾き返した。

 だが掴み損ねた刃は、傾斜を滑り落ち、すでに見えない。

 今しがた斬りつけられた箇所からじわりとあふれ出す血水の匂いと不快な感触。

 ――これ自体は致命傷ではない……だが……。

 私の四方を、敵が囲み、追撃の構えを取る――四面楚歌か。

 だが土塊の上に座したまま、ただ殺されてなどやるものか――鞘を支えとして、私はゆっくりと身を起こし、立ち上がった。


「――……私は、秀吉様が左腕……石田三成……。覇王の名代たる西が大将首……狙いたくば狙ってみせろッ……!!」



――……官兵衛。

 私の帰還を信じ、あの場所で待つ……今生において唯一人、私に“愛”という毒を食ませし者よ。

――……例え、この肉の器を失おうとも、私は必ずそこへ戻ってみせる。

――だから。


――……貴様は、絶対にどこへも逝くな……。



   ▲ ▽ ▲ ▽



「……三成……?」

 仲間に指示を出している最中に、不意に奴の名前なんぞ口にしたせいで、皆から不思議そうに見つめられる羽目になった。

「どうしたんだい?官兵衛さん」

 微妙な気まずさを感じながらも正直に、

「いや……今、三成の声が聞こえたような気がしたんだが……」

と答えると、何故か変な歓声が上がった。

「おいおい、なんか言い出したぞ、この人」

「やれやれまったく、これだから新婚さんはよ……」

「オノロケならせめて旦那が帰って来てからにしてくれよ」

「なッ……そういうことじゃなくて、だな……」

「まあまあ、いいって、いいって。でー、さっきの続きだけど……」

 小生の心中を気遣い、無理矢理にでも明るさを保ち、いつもと同じように振る舞ってくれてる連中の優しさをありがたく思いながらも、どこか落ち着かないような、胸騒ぐような感覚が拭えなかった。

 ――……なあ、頼む。早く帰って来いよ、三成……。






《続》



戻る
Topへ戻る
- ナノ -