関ヶ原の戦い―凶星―【前編】 | ナノ


関ヶ原の戦い―凶星―【前編】




 首の後ろに回り込もうとする腕を掴み、押しやった。

「――終いだ」

「……もう少し……いいじゃないか……まだ、足りない……」

 そう言って奴は品の無い物欲しそうな目をして私の顔を見上げた。

 ついたった今まで私に突き上げられ、息も絶え絶えに悲鳴を響かせては、もう無理だの、嫌だのと騒いでいた分際で。

「聞き分けろ、官兵衛――明日貴様が使い物にならなかったら笑い話にもならん」

 そう説けば、前髪の隙間から覗く双眸を酷く無念そうにすがめて嘆息し、ようやく手を引いた。

「――なあ、三成……どうしても小生を前線に……関ヶ原には連れて行ってくれないのか?」

「軍議で決した通りだ、前線へは私と刑部が出る――貴様の役目は大坂に留まり、この城を守護することだ。背後を固めろと進言したのも貴様自身だろう」

 私にとってかけがえない場所、聖域たる秀吉様の居城の守護を任せることにどれほどの意味があるか――それは、足りない頭でも理解出来るだろうに。


「確かにそれはそうだがな……」

 官兵衛は、あからさまに不服そうに顔を歪め、首を捻って私からその顔を背けた。

「……万が一お前さんが帰って来なかったら、と思うと気が気じゃないんだよ……」

「馬鹿が……」

 愚かしい懸念だ。討ち果たされるなどありえない。私が……秀吉様の残された軍勢が、敗北の汚泥にまみれるなど、あってなるものか。

「私は家康と決着をつける――その後は、及ばぬ身ながら、秀吉様の成さんとした偉業を後継しなければならない……」

 官兵衛は一瞬驚いたように肩を揺らし、視線だけをこちらへ戻した。

「――お前さん、そんなことを考えてたのか?」

 蓐に無造作に流れる黒髪を指で掬う。

「何を驚嘆する?――貴様が私をそうしたのだ」

 仇敵たるあの男をこの手で斬り捨て、秀吉様に捧げることだけを存在の理由としてきた私が、貴様を再びこの腕に抱いたその日から、もう一つの理由を得た。

 愛、という猛毒めいたこの感情を飲み干し、打ち克ち、屈せぬ生き様を秀吉様に示すということだ。

 結局私は秀吉様のように、愛、というものを棄却することが出来なかった。

 愛、が私を弱体化させる毒ならば、そんな毒程度では窒息させられぬよう、ひたすら強靭になるより他はない。

 私は何一つ削がれていない、と証明する為に、勝利し続け、生存し続け、邁進し続けねばならない。

 ――私の内にそれだけの覚悟が宿るからこそ、貴様はここにいるのだ……。

 掬い上げた髪に唇を押し当てると、触れた感覚など通わぬ筈なのに、官兵衛は「ん」と鼻にかかった声を洩らし、微かに身を捩った。
 その反応に満足を覚え、追討するように首筋をなぞる。

「三、成……」

 もどかしげに背を震わせながらも、身を固くして動かないのは、先程私に振りほどかれたことを気にしてのことか。

 「抱擁だけならば許可する」と耳に吹き込めば、安堵したように手を伸ばしてきた。

 そうして、幼子を抱える母親のように、私の体を胸に抱き寄せる。

 その行為を通じて、官兵衛の内からあふれ、私に流れ込んできた感情は強い“不安”だった。

「官兵衛……貴様は私を信じないのか?」

 強い口調で問い質すと、官兵衛は私を見つめながら、微かな苦笑を浮かべた。

「……三成……今から言うことは小生の独り言だ……聞き流し、すぐに忘れてくれていい……」

 繊細な宝飾を扱うようにそっと、奴の手が私の背を撫でる。

「だから、ただの一度だけ言わせてくれ――本当はお前さんに、刀を置いてほしい……。
……ようやく取り戻したこの安らぎをまた失うかもしれないと思うと、耐えられないんだ――だから、もうお前さんに誰とも戦ってほしくない……戦場になど、行かないでくれたらと……」

「――私は」

「独り言なんだよ、応えないでくれ……!」

 私を包む腕の力がぐっと強まった。

「……お前さんを失うのは怖い。だが……小生は、そういうお前さんの生き方込みで惚れちまったのさ、どうしようもない……だから三成、お前さんは迷わず進め。何があってもお前さんの思いを、志を貫けよ」

 抱き締める腕から、激しい情交の最中とは違う、心地よい熱が通う。

「それがどんな悪路だろうと、どこでどん詰まろうと、お前さんの歩む道に小生は添い遂げてやる……」

 やはり貴様は底無しの馬鹿だ。

 そんなことは言われるまでもない。解りきったことをわざわざ言の葉に乗せるな。

 ――だが。

 今、私の体をどうしようもなく熱い毒が駆け巡っている……血も肉も骨も髄も臓も腑も冒されていく。

 狂おしいほど愛しくて、堪らなくなる――。

 徐に頭を引き寄せ、噛み付くように口付けた。

「ん……ッ……ふ」

 待ち焦がれていたというように舌が絡み付いてくる。

 灼熱の毒に浮かされ、半ば取り憑かれたように貪った。

 そのうちに、官兵衛が舌を引っ込め、頭を仰け反らせて逃れた。

「っ……も……駄目だ……我慢が、利かな、く……なる、だろうが……ッ」

 ああ、そうだな――不覚にも私までが劣情に今一度流されそうになっていた。

 自嘲に思わず口許が歪む。

「……続きは、私が本懐を遂げ、ここに戻ってからしてやろう」

「……本当に戻って来るんだろうな?」

「貴様……まだ私に疑心を抱くか」

 腹を括ったかのような言葉を口にしたかと思えば、またちらりと不安を覗かせる――この男はよくわからない。
 私がどうすれば、何を言えば貴様は納得すると言うのか……。

 少なからず当惑を覚えた。私の当惑を察したか、官兵衛もまた思案を巡らせるように視線をさ迷わせた後、ふと何の前触れもなくニヤリと笑んだ。

 それはこの男が、ろくでもないことを考え付く時の顔だった。

「なあ、三成」

 官兵衛は私の眼前に両手を差し出した。

「小生に、枷をくれないか?」

「……枷、だと……?」

 大坂に戻ってすぐ、私自ら解いてやったあの鉄球付きの枷。
 外した途端、頭痛がするほど歓びはしゃいでいたのが記憶に新しいが……。

「あの枷でもう一度小生を繋げ。そして、その鍵はお前さんが預かっててくれ」

「突拍子もないことを……この大局に、わざわざ両手を封じるのか?」

「いいんだよ、不自由なんざ慣れたもんだ。だが戒められた小生を可哀想に思うなら、早めに帰って来てくれよ」

 したり顔で奴は囁く。

「お前さんは小生を愛してるんだろう?」

 また貴様はそうして、確認するまでもない事柄を言の葉とするを望むのか。底無しの馬鹿め。

 私はあえて官兵衛にぐっと顔を近付け、奴の邪魔な前髪を掴んでどかし、その目を真っ直ぐ覗きながら告げてやった。


「――愛している」


「え、あ……」

 途端に顔を朱色に染め上げ、水に浮かべた小舟のごとくその瞳を揺らす。

 その様が、また私の胸に毒を注ぎ込む……私はまた、この男を堪らなく愛しいと感じてしまった――この毒は、際限無く私を蝕みゆく。

 だがそれでいい。

 貴様が愚かにも自ら枷を所望するように、私もまたこの毒を欲しているのだから。

「――前言を撤回する……」

 そっと奴の腰に手を伸ばし、引き寄せた。

「もう一度私を受容しろ、官兵衛」

「……ぁ……」

 熱を帯びた体を触れ合わせると、まるで吸い付くように感じられた。

 官兵衛は一瞬、せつなげに眉をひそませ、それからとても嬉しそうに笑んだ。


「……三成……小生も、お前さんを、誰よりも――」



   ▲ ▽ ▲ ▽



「――……ん……」

 激しい頭痛とともに、徐々に意識が覚醒していくのを感じた。

「……官、兵、衛……?」

 半ば無意識に投じた呼び掛けに答えは無かった。
 ざわざわと、騒がしい雑音だけが聞こえる。


――……凶王が……た……

――……様に……急げ……


 黙れ――頭痛が酷くなるばかりだ……。

 耳を塞ごうとしたが、何故か体が思うように動かない。

 そうしている間にやがて雑音が遠退き、静寂が訪れた。

 ようやく少し気分がましになってきた――更に覚醒が進み、私はようやくゆっくりと重い目蓋を持ち上げた。

 そこにはただ、夜の闇と、それを焼き焦がさんと照る赤々とした灯火があった。

 こめかみを疼かせる頭痛に顔をしかめながら、横たわっていた体を動かすと、今度は体中を激痛が駆け抜け、思わず呻いた。


 ――ここはどこだ? 私の身に何が起きたと……。


 痛む体を無理矢理起こした私は、周囲を見回し、そして――そこが、戦場の、陣幕の内だということに気がついた。

 ――陣幕に掲げられた紋が、誰のものであるのかも。

「……馬鹿、な……」

 血の気が引いていくのを感じた。

 ありえない。

 これは何かの間違いだ。

 こんなことがあっていい筈がない。

「っ……」

 嘔吐感がせり上がり、思わず口を押さえた。


「――三成さん……大丈夫か!?」


 私の名を呼び、何者かが駆け寄ってくる。

「ほら、水……飲めるかい?」

 傍らにしゃがんだ相手が何者かを確かめるより早く、差し出された竹筒を払い除けた。

「……私に近づくな……ッ!!」

 叫んだ途端に、また激痛が苛んだ。

「難しいかもしれないけど、ちょっと落ち着きなよ……あんたにこれ以上何もしやしない」

「何もしない……だと……ふざけるなッ!!」

 苦痛を上回る憤怒が沸き起こり、私は目の前の男に掴みかかった。


「――……何故殺さなかった……私をッ、殺せ……ッッ!!」


 全身に響き渡る痛み、灯火に煌々と照らされる、忌まわしき葵の紋――私は……私は、敗したのだろう……?

 あの男に……徳川家康に。

 まだ朧気だが、少しずつ記憶が蘇ってきた――西軍が、秀吉様の軍が私の未熟ゆえに蹂躙されていった樣も、目の前で刑部を失ったことも、私の刃が家康の首に届くことなく弾かれた、あの瞬間も……。

 宿願を果たすことも出来ず、討ち取られた私が何故まだ目を開けているのか。息をしているのか。

 私に敗者の屈辱を与える為に生かしているとでも宣うか。


「だから落ち着け、ってば……俺の話、ちょっとだけ聞いてくれよ」

 掴みかかった手を容易くほどかれ、苛立ちに震えながら睨み付けた時、ようやく私はその男が何者か気付いた。

「――婆娑羅者め……何時の間に東軍に与していた……!」

 この男は、前田慶次――以前、私と家康の戦いに下らない戯言で水を差し、妨害した男だ。

「戦を厭うようなことを嘯きながら、結局貴様も家康を選んだというのか……ッ!?」

「違う、そうじゃない――俺は家康を止めようとしたんだ。今度こそ、止めたかった……何があっても」

 真っ直ぐに私を見返す眼差しに欺瞞の影は感じられなかった。

「――結局、家康の決意を覆すことは出来なかったけど、俺も一つだけ、どうしても譲れなかった……あんたの命を断つことだけは絶対にさせないって……」

「なッ……貴様かッ……貴様が家康に余計なことを吹き込んだのか……ッ」

 刀を携えていれば、斬り捨てていた――だがそんなものは意識の無い間に、当然のように取り上げられていた。
 屈辱に震撼し、歯噛みするしかない私をじっと見つめ、前田慶次はひどく静かに告げた。


「――降伏、してくれよ、三成さん」


 目の前が深紅に染まった。

「降伏だと……この上私に、家康に……仇敵に膝を屈しろと要求するか……ッ!?」

 そうしてどれほどの憤懣を突きつけようとも奴は怯まず、私から目をそらさなかった。

「ごめん。酷なことを言ってるのはわかってるよ……けど」

 そう――目をそらすことなく、されどその面を微かに苦しげに歪めながら、静かに問い掛けてきたのだ。


「――このままじゃあんたのいい人が、死ぬかもしれない……って言ったら?」






《続》



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