夜の幕開け | ナノ

夜の幕開け












 窓から差し込む柔らかな陽の中で、紙を捲る音が辺りを包んでいた。古い本独特の匂いに囲まれて、口の端を僅かに上げた男子生徒は文字の羅列に目を走らせる。
 黒いはずの髪が日光に透けて艶が増している。フレームに閉じ込めれば、美しい絵画になり得るだろう。神秘性さえ漂わせるその一線を越えるのを躊躇するが、あえて無視し足を踏み出した。
 読書に勤しむ彼のすぐ後ろに立っても本人は気付かない。仕方無く耳のすぐ傍で手を叩くと、大袈裟なまでに体をビクリと震わせた。


「柊?」
「あー…ごめんナサイ?」


 恐恐振り向いた柊に最上級の笑顔を向けると、引きつった顔で謝る。否、謝っているようで何に対して謝っているのか自分でも分かっていないだろう。


「メールで一緒に帰ろうって言っただろ」
「ああ」


 今気付きましたとばかりに頷く彼に嘆息する。


「お仕置きするぞー。仏の顔も三度までって言うだろ」
「でも柳は仏様じゃないよ?」


 揚げ足をとられて柳は自身の髪を掻き混ぜた。意図してやっているのなら幾らでも返し方はあるが、なんの邪気もなく言ってのけるから余計に性質が悪い。厄介な相手だと、何度目になるか分からない息を吐き出した。


「そうだな。とりあえず帰ろう、もうじき日も暮れる」
「もうそんな時間か」
「柊が一人で本を読んでる内に時間が過ぎてたんだよ」
「そっか」


 皮肉が通じない。…天然は手強いな。柳は苛々を通り越して呆れの境地に入っていた。


「…鞄貸して」


 本をぎゅうぎゅうに押し込めた鞄を柊から取り上げる。キョトリと柳を見上げた後、柊は綺麗に笑った。


「ありがとう」


 ああ、この表情(カオ)に落ちたんだっけ。柳は在りし日を思い出しながら、苦笑して「どういたしまして」と応える。
 窓の外には沈みかけの太陽が、夜の幕開けの準備を静かに進めていた。


end



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