一度死んだ命2 | ナノ

一度死んだ命











 気がつくと右手に包丁を持っていた。左手は無意識のうちに腹の古傷に触れている。長い年月が流れても尚、母親によって刻まれた刺し傷は、もうミミズ腫れのようなものになっている。人知れず包丁を持つ右手に力が入る。


「―――死ぬのかい?」


 僕しかいなかったはずのこの空間に声が反響した。ゆっくりと顔を上げて振り返れば、そこには黒いスーツを着たまだ年若い男が立っていた。
 整った顔に見覚えはない。男が何者なのか、という考えが浮かぶことは無かった。見覚えはないのにどうしてか酷く見知った者のように感じたのだ。


「…さあ」


 じっと見つめながら感情の無い淡々とした声を発する。一目見れば警戒心を解くだろう温和そうな男を、僕は瞳を眇めて見る。柔和そうに見えるがこういうタイプが一番危険であることを知っている。


「死にたいのかい?」


 同じような質問。しかしそれでいて大きく意味が異なる。この男が僕の何を望んでいるのか知らない。だからといって興味もないのだけれど。


「…さあ」


 同じ返答を繰り返す。正しく言うならば、死ぬ意味も生きる意味もないといったところか。
 ひたすらに男を見返すが、何を考えているのか皆目見当がつかない。元々無感情なのか、感情を押し殺しているのか。後者だったら隙が無さ過ぎる。長けているというよりも寧ろどちらかと言えば「そういう風」に幼い頃から教え込まれて身体に染み付いてしまったかのような…―――


「!」
「…価値の無い命」


 頬をなぞるように触れられただけだというのに、意志に関係なく体が戦慄く。言われた言葉が自分に当てはまり過ぎていたせいかもしれない。もしくは両方か。


「ならばその命、私に預けてみないか?」


 細められた瞳にゾクリと肌が粟立つ。底に見えぬ眼差しに吸い込まれるようにして頷いた。その瞬間、僕は初めて男の表情を見た。


end


攻めは恐らくヤクザさんだと思います



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