おいしいコーヒーの入れ方






 私、横山梓(よこやまあずさ)は、今月で丁度入社して半年になる。まだまだ経験不足だけど、少しずつ仕事に慣れてきた。でも、新人というのはどの御時世でも苦しいものだ。
 今日もまた、合コンに行くからとセンパイに押し付けられた書類が机に置かれている。残業決定。悪い人じゃないのは分かっていても、やっぱりイラッと来るっていうのが本音だったり。新人だからしょうがないと割り切るしかない。
 私は盛大に溜息を吐いてデスクに向き合った。何時に帰れるかなぁ。そんなことを考える前にさっさと片付けた方が得策か。気合い入れよっと。


◇◇◇


「…終わった」


 カチャリ。キーボードを打つ音が止まる。安堵の息を漏らしつつ、今は何時だと時計を見る。21:05。うん、頑張った。酷い時には22時近くなるので早い方だ。
 軽く目と目の間を揉みながら辺りを見渡す。室内に居るのは私と上司だけのようだ。
 上司こと八重雅志(やえまさし)は、見た目は爽やかなイケメンで独身なため社内でかなり人気がある。しかし中身は仕事の鬼。この半年で何十回怒られたか分からないし数えたくもない。
 仕事に厳しい人だけど、毎日私達一人ずつに必ず声を掛けてくれる良い人だ。なので人気は留まることを知らない。株は急上昇中。
 とは言っても、私にとってはただの頼りがいのある上司なだけなので何とも思わないけど。尊敬してて憧れてもいるけど、それだけ。恋愛感情には発展しない。


「お疲れさん。気を付けて帰れよ」
「はい」


 デスクの上を片付けながら、ふと思う。この上司が私より先に帰るところを見たことがない。いつも残業している。他人に厳しいけど、きっとそれ以上に自分に厳しいんだろうなぁ。
 ううむ、と考え込む。気を張りすぎるとストレスが溜まって禿げると思うんだけど。そのストレスが少しでも軽減すればなぁ。私に出来ることなんて皆無に近いけど、一つだけなら心当たりがある。
 特技と言う程でもないけど、コーヒーは並みより美味しく入れることが出来ると自負している。喫茶店で働いている姉に叩き込まれたおかげで。


「インスタントコーヒー、ね」


 透明な瓶に入った茶色を見つめる。ちゃんと豆を挽くところからする方が美味しいんだけどね。まあそんな贅沢なんて言っていられない。それにインスタントでも美味しいコーヒーは出来る。
 収納場所から彼専用のマグカップを取り出す。ここにはそれぞれ自分が持ってきたカップがある。暗黙の了解だ。分量は…、マグカップだからティースプーン山盛り一杯くらいね。
 ティーカップの場合はティースプーンすりきり一杯くらい、マグカップはそれよりもお湯の量が多いため、山盛り一杯が適量。個人の濃い薄いの好みはあっても、目安はこれくらい。
 小さな鍋にマグカップ二杯分の水を入れてスイッチを入れる。この給仕室に備わっている小さなキッチンには、なんと!IHが完備されているのだ。文明の利器って素晴らしい。火を扱うのは、やはり火災も起きやすいので安全面での配慮だろう。
 沸騰したお湯をマグカップに注ぐ。残りのお湯はそのまま置いておく。やっぱり紅茶でも煎茶でも器を温めておく方が美味しく出来るのだ。同時に熱消毒も出来るのだから一石二鳥。
 数秒待って、お湯を捨てる。温まったマグカップに、鍋に残っているお湯を少量注ぐ。この際、沸騰してすぐのお湯を注いだら、もれなく姉の叱責が飛んでくる。お湯は90℃がベストなんだとか。
 マグカップに入った少しのお湯で、ティースプーン山盛り一杯の粉末を投入し練り混ぜる。この方が味が良くなるんだって。
 それが終われば残りのお湯を注いでスプーンで掻き混ぜる。ふんわりとコーヒーの良い香りが給仕室いっぱいに漂った。うん、良い香り。
 ちなみに、天然水で入れると当然ながら尚良い。軟水の方がマイルドになって美味しい。硬水でも良いけど、私は軟水の方が好きだ。姉は苦いのが好きなため硬水派である。


「よし」


 一つ満足げに息を吐く。温かいうちに出そうと、いそいそと上司のもとへと向かった。


「―――どうぞ」


 集中しているらしく、パソコンと睨めっこして後ろに立つ私に気付かない彼。邪魔にならない右の空いたスペースにマグカップを置いた。彼は左利きなので敢えて右手に置く。
 そこで漸く私に気付いた上司は目を丸くして見上げた。涼やかな切れ長の目に思わず魅入る。色素が薄い茶の瞳が私の姿を映し出した。


「根を詰めすぎるのは体に良くないですよ」


 私がそう言うと、彼は目元を和ませた。あ、この表情好きだな。思わず見蕩れてしまったではないか。彼が人気なのも頷ける。どうして独身なのだろうか、と思ったがすぐに原因に思い当たる。
 きっとこの人は仕事が恋人なのだと。仕事一筋すぎてすれ違いが起きるのだろう。まだまだ若いのに。いや、若いからこそ仕事熱心なのかもしれない。


「悪いな」
「いいえ」


 長居は無用だ。私のするべきことは成した。後はもう帰るだけ。


「…美味いな」


 お先に失礼します、と背を向けた私は呟かれた言葉に振り向いた。彼は驚いているようだった。
 面倒だけど、それだけの手順をこなせば幾らでもコーヒーは美味しくなる。私も姉が入れたコーヒーを飲んだ時は、こんなにも味に違いがあるのかと驚いたものだ。この上司は中々コーヒーの嗜みがあるようだ。美味しさを分かち合えるのはとても嬉しい。
 自然と顔が綻ぶのが自分でも分かった。


「入れるのにコツがあるんですよ」
「コツ?これは本当にインスタントか?」
「正真正銘、インスタントコーヒーですよ。手間をかければその分美味しくなるんです。良ければ教えましょうか?」


 私の言葉を受けて、彼は少し悩む素振りを見せた後、「いや」と声を発した。


「横山に入れてもらうからいい」


 ―――それは、どういう意味?
 そうは思ったものの、きっと裏など無い。ここは流すのが正解だろう。


「…機会があれば、入れますけど」
「機会は作るモノだ」
「はぁ…」


 爽やかな笑みに怯む。一体何を考えているのだろう。からかわれている、というのが妥当?


「あの、私はこれで失礼します」
「ああ。有難う」


 会釈して退出する。
 私はこの時、彼の言葉の真意を深く考えていなかった。翌日、出勤して早々給仕を命じられるなんて予想だにしなかった。更にその後、上司に食事に誘われるだなんて事態、誰が想像出来ようか

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