いとしいヒト2 | ナノ

いとしいヒト2












 次の日から彼は、彼女の家へと行かなくなりました。念願叶った賭けの勝利でございました。しかし、わたくしは彼の血をいただくことはありませんでした。彼女が夜に溶けてからも、わたくしは毎日彼を追い続けました。
 今まで通り仕事をこなしていく傍ら、ふと空を見上げてはあの日と同じ目でどこかを見ていました。月日は流れ、十年が経ちました。少し白髪も増え、青年から中年へと差し掛かり始めた彼を、わたくしは見ておりましたわ。毎日、毎日。彼は寝る前に静かに手を合わせて五分程合掌するのです。
 月日はまた流れ、二十年、三十年と時間は過ぎていきます。彼は未だに独り身でした。ただ一人の女性を愛し続けておりました。静かに彼は老いていきました。その間にわたくしの容姿が変わることはありませんでした。ヒトひとりの一生など、わたくしの十分の一にも満たないのですから当たり前でございます。
 彼は完全な白髪になり、腰を曲げ、杖を持つようになっていました。五十と余年が経っていました。仕事もやめて、ひとり散歩を楽しむ毎日でした。
 そうして、その日がやってきました。彼は、あの日の彼女と同じように白い布に包まれて最期の時を迎えようとしておりました。ゆっくりと、少しずつ、その時が迫っておりました。


「ユリア…」


 朗々としたかつての美声は、いつしかしゃがれた声になっておりました。そのしゃがれた声で、名前を呼びました。かすれて聞き取りにくいけれど、確かに彼は最期に言ったのでございます。


「ユリア、きみのもと、へ…」


 穏やかに、闇は彼を迎え入れました。
 わたくしはこと切れた彼の傍に、初めて近寄りました。結局のところ、彼は彼女のために涙を流すことはありませんでした。代わりに、わたくしがたくさん泣きましたわ。泣いて、泣いて、泣きました。彼女を思ってではありません。胸が苦しくて、泣いたのでございます。
 そう、わたくしは彼に恋をしておりました。何が切っ掛けだったのかは分かりません。毎日追っているうちに、気づけば恋の蝋燭に火が灯っていたのですわ。気づいた時にはすでに遅く、もうどうにもならないにまで恋の炎は燃え上っておりました。叶わない恋だと知っていたのに。
 本来、吸血鬼わたくしたちは恋というものは一生に一度きりのものです。その熱情はひとりにだけ向けられるものであり、そういう生き物なのでございます。そう、わたくしもそのひとりに恋をいたしました。ただ、相手がヒトであっただけですわ。
 ただそれだけなのに、わたくしは吸血鬼の禁忌を犯してしまいましたの。吸血鬼がヒトと恋をすることは禁じられているのです。理由は単純明快、ヒトの寿命が短いからですわ。吸血鬼は愛に生きる生き物なのです。パートナーが亡くなれば、慟哭してそのまま後を追う生き物なのです。ヒトは儚いですから、吸血鬼はすぐに後を追ってしまいます。ですから、禁忌なのです。


「こんなところにいたのか」


 わたくしは掠れた声で「同胞…」とつぶやきました。振り返れば私と同種、つまり吸血鬼の男が立っておりました。涙に濡れるわたくしを一瞥して、同胞は近寄ってきました。


「だからヒトの世界はやめとけって、俺も仲間も言ったのに」


 眠った彼をちらりと見て、同胞はわたくしをまた見ました。静かな目でした。彼に似ているようで、まったく似ておりません。彼はもっと、優しさに溢れておりましたわ。


「…死ぬなよ」


 わたくしはその言葉に首を横に振ることも、縦に振ることも出来ませんでした。同胞はそんなわたくしに腕を伸ばし引き寄せて、唇を寄せてきました。


「お前が死ねば、俺も死ぬ。なんたって、恋の生き物だからな。吸血鬼おれたちは」


 嗚呼、嗚呼。知りませんでしたわ。あなたもまた、わたくしに恋をしていただなんて。わたくしはどうすれば。死にたい。死ねない。あなたには生きてほしいもの。幼馴染のあなたには。


「そろそろ闇の世界に戻ってこい。お前の体も限界が近づいているだろう」
「嫌ですわ。わたくしはヒトの世界におります。皆にも伝えてくださいませ」
「そう言うと思った。なら俺を受け入れろ」


 ひとつだけ、瘴気に耐える方法があるのです。それは同胞の健康な体液を受け入れること。わたくしが長い間ヒトの世界にいることが出来ていたのは、定期的にこの同胞から唾液を摂取していたからなのです。でも、それでは追いつかないくらいにわたくしの体は限界を訴えておりました。
 このまま闇の世界へ戻っても、幾分かしか命はございません。生きるのなら方法はひとつ、同胞の体液を直接摂取することのみ。
 ですけれども、あなたはそれでいいのですか。わたくしには好いているヒトがいるというのに。吸血鬼は口づけにはなんの意味も持ちませんが、性行為には意味を持ちます。受け入れることはできるのはただひとり。他の者とはできなくなります。それでも、いいと言うのですか。


「構わない。俺にはユリア、お前しかいないから。」


 見上げるわたくしの瞳を覗き込み、こころを読んだかのように同胞は言いました。なんて不毛な。誰も救われない恋。嗚呼。わたくしが生きる、その代償。
 同胞の唇が落ちてくる。堕ちていく。
 それでもわたくしは、ヒトが、いとしいのでございます。


***彼女の名前と、吸血鬼の名前が同じ。だからこそ感情移入してしまったのかもしれない。けれど、それももう終わった恋の話。***



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