いとしいヒト1 | ナノ

いとしいヒト1












 わたくしは暗い闇とともに生きる吸血鬼でございます。生まれたのはとうの昔のことで、覚えておりません。わたくしも歳をとった証拠ですわね。え?何歳かって?女性にそのようなことを聞いてはいけませんよ。
 わたくしが住んでいるのは寂れた教会でございます。昔はヒトが宗教というモノに使っていたようですが、今ではすっかり誰も訪れてきません。少なくともこの教会いえを気に入り住処にしてから150年程、ヒトを見ることは数度しかございませんから。
 どうやら界隈でこの教会は女の幽霊が出ると囁かれているようでございます。ヒトが来ないのはその噂のせいでもあるのでしょう。ですけれど、女の幽霊ではないものの女の吸血鬼わたくしが住んでいるのであながちただの噂でもないですわね。
 わたくしに同胞がいないことはないですけれど、皆闇の世界に住んでおります故、このヒトの世界には時々御馳走(ヒトの血)を味わいに来るくらいでしょうか。わたくしのようにヒトの世界に住居を構えて生活している同胞は、わたくしの知る限りおりませんわ。
 何故と問われる方も多くいらっしゃることでしょう。食事ヒトがいるのなら皆この世界で住めばいいじゃないかと思われるでしょうが、これには理由があるのですわ。
 ヒトの世界は、わたくし達吸血鬼には生きにくい世界なのでございます。ヒトという生き物達はいたずらに理性というものを持っているのです。その理性と欲望が渦巻き、この世界は悪い気に満ち満ちておりますの。いわば瘴気とでも言っておきましょうか。
 吸血鬼と聞けば悪い者という認識がございますが、実際は繊細な種なのです。瘴気に強くはありません。むしろ弱いと言っても過言ではないのです。長時間瘴気にあたっていると、身体に影響が出てしまいます。体はだるくなり意識が朦朧として、最終的には死に至るのですわ。
 しかし吸血鬼の住処となっている闇の世界は、瘴気なんてまったくありませんの。闇とは本来生き物に安寧をあたえるものでございますから。静かで穏やか、そしてすべての生き物に優しい闇の世界は吸血鬼わたくしたちにとって心地良い世界なのですわ。
 それなのにわたくしがヒトの世界に定住しているのかというと、単純な話なのですわ。わたくしはヒトという生き物が好きだからですわ。食事として好きという意味では、もちろんないとは言いませんが、違います。ヒトという生き物の生き様が好きなのです。生き様、と言うと大層なものに聞こえてしまいますが、そうではありません。なんと申し上げればよろしいのでしょう。ただ、その生き方が好きなのですわ。ううん、難しいですわね。
 例えばの御話をいたしましょう。ヒトとはずるい生き物でございます。汚い生き物だと言う同胞もいます。わたくしもそれを否定することはいたしませんわ。だって、ほんとうに卑怯でずる賢くて汚い生き物でもありますもの。ですけれど、それだけではないのです。いいえ、そのようなヒトばかりではない、という言い方の方が合っておりますね。
 そう。きれいなヒトもいるのです。儚い命の中で懸命に生きようとするヒトが、わたくしは大好きなのですわ。
 あれはいつの話だったかしら。そうですわね、八十と余年前の話ですわ。最高においしそうなヒトがおりましたの。当然ながら目をつけたわたくしは虎視眈眈と血をいただく機会を伺っていました。
 そのヒトは二十歳前半に見える青年でした。彼には想い人がいるようでございました。その想い人は触れたら折れてしまいそうなほど儚い女性でしたわ。どうやら病を患っているようで、家で療養していました。ほとんど寝たきりで起きることも困難なようでした。特別抜きん出て美しいというわけではありませんでしたが、守ってあげたくなる方でしたわ。
 彼は毎日仕事をこなしながらも暇を見つけては、彼女に会いに行っていました。晴れの日も、雨の日も、嵐の日も、雪の日も。毎日毎日、一日足りとも欠かさずに。
 わたくしもバレないように毎日毎日、彼を追いかけていました。最初は隙を見て血をいただこうと思っていたのですが、どれだけの間毎日通うことを続けられるかを賭けるようになりましたわ。と言っても賭けるのはわたくしひとり。彼が通うことを欠いたその日に血をもらうことを賭けにしておりました。賭けにもならない賭けでしたけれど、わたくしは彼を追いかけるのが楽しくなっていたのです。今更途中棄権など出来ませんでした。
 そうして彼は彼女を見舞うことで、わたくしは彼を追いかけることで、段々と季節が変わって参りましたの。青葉の茂る季節は過ぎ、紅葉が始まり、葉が落ち始め、地面は雪に覆われ、そうしてまた青葉の茂る季節がやってきたのです。彼は一年経っても、彼女のもとに通うことをやめる日はありませんでした。
 どれだけ続くのかしら。そう考えていたある日、わたくしはあることに気づきました。気づいてしまいました。日に日にやつれていった女性から漂う死の匂いに。
 吸血鬼わたくしたちは夜の生き物です。泣きそうになるくらい優しい闇とは常に隣に在る者です。生き物の死というものには、とても、とても、敏感なのでございます。そしてその予想は外れることはありませんでした。
 女性は、真っ白い布に包まれて穏やかに眠りにつきました。時々苦しそうに歪められていた顔かんばせはいつになく安らかなものでございました。彼は、ただただ彼女を見つめていました。深い悲しみと優しさを存分に含んだ目を細めて、彼女の頭に手を伸ばしました。


「おつかれさま、ユリア。よく、がんばったね」


 彼はゆっくりと彼女の髪を撫でました。慈愛に満ち満ちた彼のその表情と行為に、わたくしはただ佇むだけでございました。胸の内があたたかくなり、そして少しの痛みを感じました。



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