帰る支度をしている弥生様に近付く。
「立花様、お話があるのだけれどいいかしら?」
振り返り私を視界に捉えた弥生様のお顔が青ざめるのに胸を痛めながら、表面では私はにっこりと微笑んだ。
「……ごめ…なさ」
ポロポロと綺麗な涙を流しながら謝罪する弥生様。
違います!!
貴女が謝る必要なんてないのです…!!!
そう叫んでしまいたかったけれど、今私がそれを言ってしまったらなにもかもが台無しだ。
「謝罪するくらいならば最初からやらなければよろしいのに。その程度も理解することのお出来にならない頭しかお持ちではないのかしら」
私は攻撃の手を緩めることなく言い募る。
次いで二冊目の弥生様の教科書に手をかけた。
ーーーー今
私の手からビリビリと耳障りな音がしたと同時に、この教室の扉が勢いよく開いた。
「弥生っ!!」
音に驚き振り返った弥生様を、走って駆けつけたのか息が上がっている晴貴様が力強く抱き締めた。
辛うじて顔には出さなかったが、一瞬動揺して視界が大きく揺れた。
晴貴様は弥生様を腕の中に収めたことで少し冷静になったらしく、私を探るように見詰めたあと、私の手にある見るも無惨に破られた弥生様の教科書を目に止め、状況を完全に把握したのか私を冷たく見据えた。
「杏利、どういうつもりだ」
いつもよりも一段低い声で晴貴様は私に尋ねる。
晴貴様、本気で怒っていらっしゃる……!
私がしたことを思えば当たり前なのだが、初めて目の当たりにする晴貴様の心からの怒りに怖じ気づきそうになる。
でもここまできて失敗する訳にはいかない。
私は震えそうになる足を叱責し、勇気を振り絞り堂々と晴貴様の目を見返した。
「どういうつもりもなにも……立花様が最近少し頭に乗りすぎているようでしたので目を覚まさせて差し上げただけですが?」
精一杯の悪どい笑みを浮かべて言う。
この発言は晴貴様の逆鱗に触れたのだろう。
晴貴様の瞳から私という存在への関心が消え失せたのがわかった。
「そうか、もういい」
私から顔を背け、ずっと晴貴様の腕の中で縮こまっていた弥生様に甘く微笑みかけた。
心が悲鳴をあげる。
喉がひきつり目の奥がだんだんと熱くなってくる。
まだだ、まだ終わってない。
晴貴様は私に完全に興味をなくしたようだった。
話し合う価値もないと考えたのだろう、弥生様と寄り添い教室を出ようとしていた。
それを私は何を言うでもなく見送る。
このまま立ち去るのだろうと思ったが、不意に晴貴様が此方を振り返った。
「ああ、そうだ。婚約は破棄させてもらうから」
「どうぞ? ご勝手に」
やっと、終わった。
しかしすぐさま明日から元通り、という訳にも行かないだろう。
暫くの間は仮面を被り続けなければ。
もしすぐに元の私に戻ってしまったら、晴貴様に少し前までの私は精神状態が不安定だったのかもしれないと取られて、やっぱり婚約破棄は見送る、なんて言われたら今までのことが全て無駄になってしまう。
とりあえず卒業までは頑張ろう。
そう今後の予定を決めたとき、全身から全ての力が抜けた。
立っていられずに崩れ落ちるようにその場に座り込む。
終わって、しまった。
そう思った途端目から次々と涙が溢れ出す。
叫び出しそうなほど苦しかったけれど、ここはまだ学園内で誰に聞かれるかわからないため、口に強く手を押し当て堪える。
しかし押し当てるだけでは隙間から声が漏れてしまっていたので、手に歯を突き立てた。
……苦しい。
息を吸っても吸っても益々苦しさが増すばかりでちっとも楽にならない。
私は過呼吸になっていた。
意識がぼんやりと霞み少し苦しさが和らいだように感じたが、耳に入る呼吸音は更に大きくなっている。
私は……死んでしまうの?
そう頭に浮かんだ瞬間に死ぬのは嫌だと思う。だって死んでしまったらもう晴貴様に会えないじゃない。
例えこれから冷たい視線しか向けられなくても、いや、それすらなくもう二度と晴貴様の視界に入ることすらできなくても。
私は晴貴様の生きている世界で生きていたい。
「はあっはあっ……誰か……!!」
死に物狂いで声を搾り出す。
突然扉が開く音がした。
「はあっはあ!……ぅ」
「!?っおい、大丈夫か!?」
涙でぼんやりと映る入って来た人は、動揺した気配を見せながらもすぐさま私の背中を擦ってくれた。
良かった……これで生きていられる。
入って来た人が誰かはわからないけれど優しい人であったことに安心して、私の意識は暗闇に消えた。
私の愛は他人から見ると酷く歪な形をしていることだろう。
私は自ら愛しい方に最も近い場所を手放した。
たとえそれで独りになっても、貴方から嫌われても構わない。
貴方さえ幸せならば、私は全てを投げ出そう。