『番外編』
ある冬の夜【3】

 期待しながら玄関を開けたものの、部屋の中は暗く静まり返っていた。

「ま、いっか」

 麻衣の喜ぶ顔は明日の朝までおあずけになってしまうけれど、楽しみが少し先に伸びただけの話。

 いつもの可愛い寝顔は見られるし、今夜はいつもより長く抱きしめていられる。

 スキップしたい気持ちを抑え、慎重にケーキの箱を冷蔵庫に入れて、麻衣の喜ぶ顔を思い浮かべながら扉を閉じて浴室へ向かった。


「んぁ、腹減ったなぁ」

 仕事の匂いを落とした後に空腹を覚えるのは、これでも仕事中は気を張っているからかもしれない。

 シャワーを浴びて真っ直ぐベッドへ行く日も多いけれど、今夜のようにあまり飲まなかった日は、麻衣が作っておいてくれたおにぎりを食べることが楽しみだ。

 一人暮らしをしていた頃とは違い、ようやく本来の姿として機能しているキッチンの電気を点けた。

 冷蔵庫から水を取り出して振り返れば、いつものように皿の上におにぎりが置いてある。

「いただきまー……」

 好物のワカメが混ぜてあるおにぎりを口に運ぼうとした時、カウンターの上に置かれた袋が目に入った。

「コンビニの袋?」

 おにぎり片手に手を伸ばし、小さなビニール袋を指に引っ掛けた。思ったよりズシリと来た重みに驚きながら引き寄せて中身を覗き込んだ。

「あん、まん?」

 意外な中身に思わず首を傾げてしまう。

 今夜の夜食のつもりで麻衣が用意してくれたのかと思ったけれど、袋の中身に触れてみるとまだ温かいことにさらに驚いた。

「……麻衣?」

 よく考えてみたら自分への夜食のつもりならあんまんのはずがない、嫌いではないけれど好きでもないし、どちらかといえば肉まんを食べる方がいい。

 麻衣が自分の好みを知らないわけがなく、妙な胸騒ぎを感じて一口も食べていないおにぎりを皿に戻して寝室へ向かった。

 寝室のドアを開けていつもと変わりないことに少しだけホッとする。

 小さな明かりだけのついた薄暗い寝室の中、無意識に息を殺しながらベッドに近付いた。

(そうだよな、寝てるに決まってるよなー)

 ベッドに出来た布団の山に、余計な気を回しすぎだと思ったが、今さらおにぎりを食べにキッチンへ戻る気にはなれず、ベッドの中に潜り込んだ。

 習慣になった寝る前のキスを麻衣の頬にするため、起こさないように気を付けながら麻衣の頬に掛かる髪に触れた時だった。

(え……、なに?)

 ほんの一瞬だったけれど、指先に触れた麻衣の頬は信じられないほど冷たい。

(やっぱり気のせい、じゃないよなぁ)

 寝ている麻衣を少し眺めていると、その思いは確信へと変わっていった。

 もう何事もなかったようにキスすることは出来ず、少し考えてから麻衣の首の下に腕を差し込み、麻衣の身体を後ろから優しく抱きしめた。

 パジャマ越しに伝わるはずの温かい体温はなく、安心して眠っているとは思い難い身体の強張りを感じられた。

(麻衣、起きてるんだ)

 そう思ったのは少し強めに抱きしめた時に一瞬だけ強く震えた瞼だった。

 冷え切っている麻衣の身体に自分の熱が移って温まるように祈りながらジッとしていたが、鼻先にある微動だにしない麻衣の頭を見ているうちに我慢出来なくなった。

「麻衣、何かあった?」

 静かに聞いたその声に、腕の中にある麻衣の身体が動揺を見せた。

 動揺を見せたのは一瞬で、まるで貝のようにジッとしている麻衣、無理矢理こちらを向かせることも出来るけれど、そうするべきじゃないような気がして、黙って麻衣の返事を待った。

 どのくらい沈黙が続いたのか、決着がつかないと思われた根競べに、最初に白旗を上げたのは麻衣だった。

 抱きしめていた手に遠慮がちに麻衣の手が重なった。冷たい指先に堪らず小さな手を強く握り返してしまう。

「おかえり、陸」

 囁くような麻衣の声が思っていたよりも普通だったことにホッとする。

「ただいま」

 シャンプーの香りの残る髪にキスをすると、麻衣の身体から余分な力が抜けたのが分かる。

「陸……」

「ん?」

 それきり黙ってしまった麻衣だったけれど、何となく麻衣の気持ちが伝わってくる。

「あんまん」

「うん」

「食べちゃおうかと思った」

「食べて良かったのに」

「んーん、明日の朝、あんまん頬張る麻衣を見たいから止めた」

「なぁに、それ」

 麻衣の声から少しずつ緊張が取れていくたびに、麻衣の身体にも本来の温かさが戻って来て、抱きしめている自分もホッとするような温もりに包まれていく。

 何もなかったようにこのまま眠ってしまうことも考えたけれど、それはいけないような気がして、麻衣の首の下から腕を抜いた。

 抜いた腕で身体を支え、上半身を起こして背を向けている麻衣の顔を覗き込もうとすると、麻衣の方が先にこっちを向いた。

 顔を見ただけで麻衣の想いが手に取るように分かり、急速に膨らむ愛しい気持ちが心の中だけに留めておけなくなっていく。

「陸、あのね……」

 戸惑いながら口を開く麻衣だったけれど、言葉の続きは唇で吸い取った。

 ただいまのキスにしてはかなり長いキスをして、ようやく唇を離すと、麻衣の表情からは不安も寂しさも消えていて、代わりにあったのは眠りにつく前の少し幼い表情。

「もう、眠れる?」

「ん、陸……ありがと」

 今度は顔を見ながらもう一度、麻衣の身体を腕の中に抱き入れて、ようやくオヤスミのキスを頬に落とす。

 麻衣は少し笑って何か言おうとしたけれど、開きかけた唇が言葉を紡ぐことはなく、すぐに規則正しい寝息が聞こえて来た。

「おやすみ」

 腕の中にある愛しい温もりに、陸の身体にも睡魔は遅れることなくやって来た。

end
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