『番外編』
ある冬の夜【2】

 マンションから一歩外に出ると、寒さがより一層厳しく肌を突き刺した。

 通いなれた駅までの道は、いつもと同じはずなのに、時間が違うだけでかなり印象が違う。

 辺りに人影はなく所々に出来た薄暗がりでは、無意識のうちに足を速めながら、麻衣は駅までの道のりを急いだ。

「はあ……っ」

 いつもよりも早足で向かい駅が見えてくると、店やコンビニが並び安心出来る明るさに、ホッと息を吐いて足を緩める。

 あれほど寒かったはずなのに、今は軽く息が弾んでいるせいか、身体も何となく温かくなっていた。

「私……」

 駅はもうすぐそこ、この信号を渡ってしまえば、改札はもう目の前だというのに、信号が青になっても足が躊躇した。

 店に行ってどうするの?

 ふと冷静になった自分に自問自答した。

 部屋を出る前はどうしようもない寂しさにも似た心細さを埋めるため、陸に会いに行くことが最善だと思っていたのに、ここまで来てそれが良いことなのか分からなくなってしまった。

 店に行けば陸は間違いなく喜んでくれて、何よりも優先して自分の側に来てくれる。

 寂しさも心細さも、その意味さえ分からなくなるほど、陸は心だけでなく身体ごと温めてくれるに違いない。

 そうやって自分が満たされている一方で、寂しい思いしてしまう女性がいることも事実。

 店に来る女性は決して安くはない金額と引き換えに、お目当てのホスト達と短い時間を過ごしている。

 人気のあるホストとなれば、独占出来る時間は本当に少ないのに、それでも彼女達はお目当てのホストが自分のテーブルに来てくれることを信じて待っている。

 その中で陸を指名する女性の多さは……、自分で嫌というほど分かっていた。

「やっぱり、帰ろう」

 正規の金額を払わない(陸が立て替えている)自分には、その彼女達を押し退けて陸を独占する権利はない、それに……あと数時間経てば陸の顔を見ることが出来る。

 たった一晩、たった一晩のことなのに、寂しいからという理由だけで起こすには、あまりにも身勝手すぎる行動だということに、今になってようやく気付かされた。

躊躇して止まっていた足はようやく動いた、一歩引き下げてそのまま身体の向きを返る。

 温かくなった身体はいつの間にか冷え、再び襲ってきた寒さに身体が震えてしまう。

 マフラーの中に顔を埋めて歩き出した麻衣の視界にコンビニの明かりが入り込んだ。

 コンビニの中ではレジ前にホットメニューが並び、いつもなら気にもならず素通りしてしまうそれらも、今はとても魅力的に映り、麻衣は迷うことなく店の中に足を運んだ。


◇ ◇ ◇


「久しぶりに来たのに……」

 立ち上がった陸は不満そうな目で見上げられると、少しだけ考える素振りを見せてから、ソファの背に手を置いて中央に座る女性の耳に顔を近付けた。

「なんか嬉しいな。絵美子さんのそんな表情が見られるなんて」

「なぁに、それ。そりゃ私には若い子みたいに可愛げなんかないわよ」

 プンと顔をそむけてしまう彼女だったが、少し膨らんだ頬を見ながら囁く。

「いつもさ、結構あっさり帰っちゃうでしょ? もしかして俺といても楽しくないのかと思ってたんだよね」

「そんなこと……っ」

 慌てて否定する彼女が振り向いた瞬間を逃さず、今日一番の近い位置から彼女の目を見つめる。

 彼女は目が合うとまるで少女のように恥ずかしそうに目を泳がせた。

「あるわけないじゃない……。そんなこと言うなら、陸の方こそ……私みたいなオバさんより、若い子と飲んだ方が楽しいんじゃないの?」

「んー? 俺、今までずっと絵美子さんにそんな風に思わせてたの? そうなんだ、なんかショックだな。俺がいる時にヘルプ付けない理由とか、分かってもらえてなかったんだ」

「……え?」

「飲んで騒ぐのは誰とでも出来るんだよ」

「陸?」

「絵美子さんとは二人きりで話したいんだよ。俺にとって絵美子さんと話す時間はとても大切なんだ」

「そんな風に……思って、くれてたの?」

 彼女は目を潤ませて「ごめんなさい」と言いながらスーツの袖を遠慮がちに摘んだ。

よし、これでオッケーかな。

心の中の顔は決しておくびにも出さず、袖を摘んでいる彼女の手の上に、自分の手をソッと重ねた。

「ねぇ、絵美子さん」

 今までも小さな声だったけれど、それよりも小さく秘め事を囁くようにさらに顔を近付けた。

「明日の昼、会社抜けられる?」

「え?」

「2部に出なきゃいけないからもう帰るけど、2部少し早めに抜けるからさ、お昼一緒に食べようよ」

「い、いいの?」

「絵美子さんとこの会社の近くに韓国料理屋あるじゃん。俺、あそこのサムゲタン好き。一緒に食べたいなーって思ってたんだけど、あ……でも、会社に近いし俺みたいな奴と一緒に居るとこ見られたらヤバイか……」

「平気っ、そんなこと気にしないもの」

 嬉しそうに微笑んだ彼女に、俺も笑顔を返して重ねていた手を離すと同時に、近付けていた身体も起こした。

「じゃあ、明日ね。またメールするよ」

「うん」

 小さく手を振る彼女に手を振り返してから、他のテーブルの客達に声を掛けながら、それでもいつもより早足でそのまま厨房へと足を向けた。

 厨房に入ってホッと息を吐いた。

 絵美子さんが店に通い始めて1年半、年齢は麻衣よりも少し年上で、綺麗な人だけれど華やかさはない大人しい女性だ。

 高い酒を飲むわけでもないが、定期的に通ってくれるから大事にしている一人だが、誠さんからは気をつけろと言われているけれど、今のところ特に心配する必要はなさそうだ。

彼女とはほとんど店外デートをしたことがなかったから、たまにはいいかと思っての明日の提案だったけれど、本当なら美味いサムゲタンよりも麻衣のおにぎりの方が良いに決まっている。

 多少の犠牲は払ったけれど、概ね予定通り運んだ喜びを鼻歌で表しながら、厨房内の冷蔵庫へ駆け寄った。

「陸ー、店の冷蔵庫勝手に使うんじゃねぇぞー」

「ごめんって、彰さん。だってさー麻衣の好きなチョコケーキ買っちゃったからさ」

 冷蔵庫の中から傾かないように慎重にケーキの箱を取り出した。

 ヒンヤリしたケーキの箱を、元々入っていた紙袋にさらに慎重にしまっていると、彰さんが呆れた顔をしながらやって来た。

「ったく、早退か? まだ11時前だぞ、これからだっていうのに……」

「違うって! たまには2部出ろって誠さんがうるさいから、明日出ることにしたの。だから今日は早く帰ってもいーの」

「理由が分かんねーよ。ったく、素直に家が恋しいって言えよ」

「何言ってんだよ、彰さん。俺が恋しいのは家じゃなくて麻衣だろー。起きて待っててって、連絡しようかな。いや、驚く麻衣の顔もいいよなー。ってなわけで、お先っ!」

「へぃへぃ。明日、遅刻すんじゃねーぞー」

「あ、明日さ。麻衣送ってから来るから、少し遅れるって言っておいてよー」

「お前なっ!!」

 彰光の怒る声を背中で聞きながら、陸は裏口からこっそり店を出ると、タクシーを捕まえるために足早に大通りに向かった。

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