『番外編』
寒い日の朝に【2】
こんなに朝早く学校へ来た記憶はない。
いつもと違う時間の電車に一人で乗るのもなんか慣れなくて、駅に着くまでなんだかソワソワしてしまった。
部活が始まるよりずっと早い学校は不気味なくらい静かで、校庭の空気は肺が凍りそうなほど冷たい。
「さぶ……」
ぐるぐる巻きにしたマフラーに顔の半分くらいを埋めても、耳まで覆うことは出来ず冷気にさらされる耳が何となく痛い。
寒い日はダウンジャケットも役に立たないんだな、と心の中でボヤキながらも足は真っ直ぐ校庭の奥にある弓道場へと向かっている。
駅から学校へ向かう途中、俺ってバカかもって少し思った。
朝早く来てもやることないし、ものすごく寒いだけだし、琴子には今日は大雪になるとかバカにされたし、何だかなと思う。
弓道場の途中にある自販機で温かい飲み物を買って、それで暖を取りながら弓道場の中をこっそり覗き込んだ。
広い弓道場には貴俊の姿しか見えない。
貴俊は白い道衣に黒の袴姿、この寒いのに袖は肘の辺りまでしかない。
見ているだけで寒くて震えてしまうのに、貴俊は板の間に正座したまま動かない。
いつからそうしているのだろう。
目を閉じた顔は真っ直ぐ前に向けられていて、背中はまるで棒でも入っているかのように伸びている。
腹が立つほどいやらしいことをする唇も、今は真っ直ぐ横に線を引いたように閉じられていた。
そこだけ時が止まっているんじゃないかと思った。
そう思ってしまうほど微動だにしなかった貴俊は、少しすると目を開いたと思ったら音も立てずに立ち上がった。
そこからは流れるような動作に無駄な動きは一切ないし、耳障りな雑音も一切聞こえて来ない。
息をするのもはばかられるほど、集中している貴俊はゆっくりとした動きで的に顔を向ける。
持ち上げた弓を引きながら下ろしている間も、貴俊の表情に変化はなく呼吸さえもしていないように見える。
大きく引かれた弓が貴俊の指から離れるまでの数秒、俺は貴俊の立姿から目を離すことが出来なかった。
綺麗だ。
男なのに綺麗という言葉が似合う。
高等部に上がった時、貴俊は部活は迷わず弓道部にすると言った。
貴俊ならバスケでもバレーでも陸上でも、何でも出来たはずだし実際に先輩達に声を掛けられていたのに、やったこともない弓道を選んだ。
でも、正解だったと思う。
弓道は貴俊に似合っている。
バスケでスリーポイントを決めるシュート姿も、バレーで高く飛びスパイクを打つ姿も、陸上でグランドを走ったり高飛びをする姿も、そのどれもが注目されるほどカッコいいだろうけれど、弓道は別格だ。
俺は見惚れていた。
同じ男で生まれた時から一緒にいる相手なのに、心臓が激しく音を立てて身体が熱くなってしまう。
矢を放ち静かに息を吐く貴俊に、自分も息を止めていたことに気が付いた。
同じように息を吐いたつもりが、薄く開いた唇から零れたのは熱い吐息だ。
やばい、なんだこれ……。
自分の身体の変化もその原因もすぐに気が付いた。
以前の自分なら暴れだして発狂していることは間違いない、もしかしたら今すぐ乗り込んで行って貴俊の頭を叩くくらいしたかもしれない。
俺は貴俊に欲情している。
何をされたわけでもないのに、ただジッと見ていただけで、弓を引き絞るあの腕が時に強く時にもどかしいほど優しく抱きしめることを思い出した。
今は真摯に的を見据える瞳に、自分の恥ずかしいほど蕩けた顔が映ることを思い出した。
そんな自分が恥ずかしくなり、逃げ出そうとして足を引いた時だった。
頭の中が軽くパニックしていたせいか、それまであった緊張感が途切れたせいか、足を引いた時にジャリと音を立ててしまった。
すぐに貴俊の視線がこちらに向けられる。
しまった!
見つかったらヤバイ、とにかくここから逃げ出さないと、そう思って身体の向きを変えたけれど、駆け出すより先に背中に声を届いた。
「祐二!?」
早朝の静かな学校に貴俊が名を呼ぶ声が響いた。
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