『番外編』
Another one55
静かな部屋に陸の凛とした声が響いた。
「大馬鹿でした。もう絶対に手を離しません」
そう言った陸が今度は麻衣の手をギュッと握りしめた。
麻衣にはピンと来なかったけれど、竜之介だけには意味が通じたらしく、正面に座る竜之介は意味深に唇の端を上げた。
「お前が幸せにしてやれると?」
その言い方が気になって言い返そうと麻衣は、陸に痛いほど手を握られて口を閉じた。
「俺が……俺が幸せになれないんです。麻衣がそばにいてくれないと」
「……陸」
陸に視線を向けられ、熱い眼差しで語りかけられた。
「この一年、必死に忘れようとした。でも無理だった。寝る前、まぶたの裏には必ず麻衣の顔が浮かぶ。それも泣いている顔ばかり。一緒にいた時は泣いている顔なんて見なかった。俺といたから、ね……そうだよね?」
否定なんて出来るはずもない。
同じように一年、寝ても覚めても思い出すのは陸のことばかり、最後に見た辛そうな顔ばかり、携帯の中の陸は笑っているのに、まぶたの裏に浮かぶ陸の顔はいつも辛そうな顔だった。
今だからこそ思う、どうしてあの時別れを選択出来たんだろう。
隣にいて手を握ってくれる、あの頃当たり前だったことが、今こんなにも嬉しく思う。
「麻衣?」
「うん、私も……陸が一緒にいてくれないと、幸せになれない」
親の前だということを一瞬忘れてしまいそうになった。
陸の顔があまりに嬉しそうに笑って、出会った頃のような曇りの無い瞳の中には、自分しか映っていない。
瞳の中に映る自分の顔が少しずつ近づいて来る中、食器の触れ合う音にハッとして我に返ることが出来た。
後少しで触れそうだった陸の唇から慌ててあは慣れると、あからさまに残念そうな顔をする陸の向こうに、台所から戻って来た美紀が立っていた。
「さすが俺の美紀。いいタイミングだな。もう少しで娘のラブシーンを見せつけられるところだった」
「お、お父ちゃんっ!」
「子供の恋愛に口を出すつもりはないがなぁ。男親として娘がキスする姿は複雑だ」
「まあ、竜ちゃんったら。竜ちゃんが口を出したから、陸くんがここにいるんじゃないの?」
この中で一番動じていないのは間違いなく母親の美紀で、どんな時でも場の雰囲気を和ませることが出来ることも美紀しかいない。
美紀はテーブルの上に持って来たお盆の上から、人数分の皿と箸とそれぞれの前に湯のみを置いた。
「それで、お話は済んだの?」
エプロンを付けたまま、美紀がソファに腰掛けると、竜之介はそうすることが当然とばかりに、美紀の肩を抱いた。
「ああ、たった今終わった。陸、嫁さんの美紀だ。可愛いからって口説いたりしたら承知しねぇぞ」
「もう、竜ちゃんったら、こんなオバサンなんか相手にされないわよ」
「相手にされなくていいよ。美紀が可愛いのは俺だけが知っていればいい」
(始まった……)
昔から両親はとても仲が良い。
それは思春期の子供の前ではどうなのかと思うほど、何十年経っても恋人気分が抜けない二人に、一番動揺しているはずの陸を見ると、意外なことに目を輝かせている。
二人の世界に入っている両親を横目に見ながら、こっそりと陸に話しかけた。
「陸、どうしたの?」
家に招きこういう場面を目の当たりにした友人は、反応に困るか見なかったフリをする。
中には少し冷めた目で見る人もいるくらいだった。
「麻衣、俺達もあんな風になろうね! 子供の前だからって、遠慮なんかすることないよね!」
「え……陸、それはなんか違……」
「初めまして、中塚陸です!」
聞く耳を持たず、すっかりいつもの調子に戻った陸と、イケメンの息子が増えたと喜ぶ両親が、折り詰めの寿司を囲む。
嬉しいけれど先行きの不安を感じずにはいられない麻衣は、陸から勧められた好物のツナ巻きを口に入れた。
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