『番外編』
Another one38

 ドア一枚隔てただけで店の喧騒は嘘のよう、部屋には静かでゆったりとした時間が流れている。

 あの頃はシャンパンだろうがワインだろうがブランデーだろうが、ジュースや水のように流し込んで味わうなんてこと考えた事もなかった。

 グラスを傾けて唇を湿らすようにゆっくり飲めばその味を楽しめることが出来るんだと初めて知った。

「へぇ……それで誠の店で働くことになったのか」

 酒の肴のつもりだったのか誠と知り合った経緯を聞かれて答えると、竜之介が大した感想も口にせず静かに頷いたのを見て陸は胸の奥がざわついた。

(さっきからずっとこんな感じだ)

 質問攻めとまではいかないが竜之介は陸のことをポツリポツリと尋ねてくる。

「それでホストを辞めて花屋になったのは女か?」

「え?」

「お前くらいの若さならまだまだ現役で十分通用するだろ? この前の話じゃホストの仕事が嫌いだったわけじゃねぇみたいだし、たとえ花屋が夢とはいえ、今このタイミングでやるってことは女だろ」

「あ、いや……」

 適当に笑って誤魔化すことも出来たはずなのに、言いよどんでしまった陸に竜之介は面白そうに眉を上げた。

「図星か?」

 ククッと低く笑われて陸は気まずさに視線を逸らした。

(ホストを辞めて花屋になろうとしたきっかけは……確かに麻衣にあるのかもしれない)

 麻衣の「せい」ではなく麻衣の「おかげ」で決断をすることが出来た。

 あのまま続けていたら確かに今よりずっと稼ぐ事も出来ただろうし、何不自由のない生活を続けられた。

(あの時の俺も今の俺もそんなものには未練はない)

 それに……麻衣との思い出が詰まったあの店やあの部屋にいることが辛くて堪らなかった。

 麻衣を失った痛みを癒し心に開いた穴を埋められるもの、自分に残されたものは花屋になるという夢だけだった。

「ナンバーワンを捨て、年収ン千万の生活も捨てられる。よっぽどイイ女なんだろうな」

「ええ……イイ女、でしたよ」

「……でした?」

「ハハ……、見事に振られました」

 喉の奥の乾いた笑いがその台詞を余計に情けないものにしてしまう。

(酔ってんのかな、俺)

 いつもなら絶対にこんなこと言わないのに口が軽いのは、久々のアルコールと竜之介の人柄のせいかもしれない。

 誠や彰光とは違い、歳がずっと上で自分や麻衣のことをよく知らない相手だからこそ話しやすいということもある。

 面白そうな話題でも見つけたとばかりに視線を向けられて、一瞬ためらいながらもグラスに口を付けてから再び口を開いた。

「彼女は年上だけどすごく可愛くて、可愛いだけじゃなくてしっかりしてて、時々母親じゃないかと思うこともあって」

 頭に浮かぶのは好き嫌いをする自分に困った顔を見せ何とか食べさせようとする麻衣の姿。

 初めて出会った時のクルクル変わる表情も昨日の事のように思い出せる。

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