『番外編』
初めてのバレンタイン【19】
まさかそんな言葉が和真の口から出るとは思わずさっきまでの張りつめていた緊張は一瞬にして霧散した。
(もしかして……怒ったのかな?)
いつもは怒るわけではなく不機嫌になって意地悪をするだけ。
和真にとって不機嫌はそれほどの意味はなく、かのこには分からないが時としてワザと不機嫌になったように見せている。
いつもなら嫌味の一つも言うかまったく取り合わないか、それが二人のコミュニケーションだとでも言うように言葉遊びをする和真。
それがあんなにあっさりと言われてしまいかのこは愕然とする。
久しぶりの恋人とのデートに怒らせるつもりなんてこれっぽっちもなかった。
「か、和真……あの……」
急に不安になったかのこは機嫌を伺うように声を絞り出す。
さっきまでとは違う嫌な汗が手の平に滲み始めたことに気付きながら持っていた鞄をギュッと握り締めた。
(ど、どうしよう……こんなはずじゃ)
和真は大きく一歩踏み出したまま左手を伸ばした。
叩かれる! と思ったかのこは思わず首を竦めて目を閉じた。
(あ、あれ……?)
いくら待っても身体に衝撃がないことに恐る恐る目を開けて目の前にいる和真を確認する。
さっきよりも数十センチも前にあった和真の顔にかのこは一瞬だけ息を詰めた、和真は左手で開け放したドアの取っ手を掴み体を大きく前屈みにしていた。
「帰りたければ帰れ、別に俺は止めない」
「えっ……あっ……ち、ちがっ……」
抑揚のない声でもう一度同じ言葉を発した。
まるでそれが最後通牒のような気がしたかのこは慌てて足を前に踏み出して口を開いた。
だがそれを和真の射る様な視線が押し黙らせる。
「最後まで聞けよ」
どうやら話にはまだ続きがあったらしく和真は不安そうなかのこの顔を見て少しだけ口元を緩めた。
(お、怒ってない?)
少しだけいつもの表情に戻った和真にかのこは幾分か身体の力を抜いた。
それでも真っ直ぐ和真の顔からは視線を逸らさずにいると、和真は大きく開いていた足を揃えかのこからごく近い場所に立つと右手でかのこの顎を持ち上げた。
まるでキスをするような格好になり、露わになったかのこの白い喉が上下に動くのもはっきりと見て取れた。
「ウサギ狩りは得意なんだぜ?」
「………………?」
言われた意味が分からないかのこは首を傾げた。
和真はその様子に面白そうに目を細めながら顔を近づけるとその言葉を捕捉するようにさらに口を開いた。
「忘れたのか? 俺は狙った獲物は絶対逃さないんだ」
いつかどこかで聞いたようなセリフを耳元で囁かれてかのこの唇がわなわなと震え始めた。
(う、うさぎって私のことですか!?)
今日エレベーターの中で言われた言葉が頭をよぎる。
「あ、あの……か、和真?」
「じゃあ、今から子兎狩りと行くか?」
自信たっぷりに囁かれた言葉にかのこの身体は玄関の中へと吸い込まれた。
子兎捕獲完了。
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