『いつかの夏へ』
3
コンコン。
形ばかりのノックをした真子は中からの返事を待たず扉を開けた。
「雅樹ー、ちょっといい? お義父さまが披露宴の列席者の方で確認したいことが……」
手にした書類に視線を落としながら部屋の中に入った真子は顔を上げるとようやく言葉を切った。
(あら……)
大きな書斎机の向こう側で黒い革張りの椅子に背を預け眠る雅樹の姿。
頭を横に傾け胸の前で腕を組み、静かな寝息を立てている。
起こそうかと迷った真子は書類を机の上の置くと自分の肩にかけていたストールを雅樹の体に掛けた。
書斎机の上に視線をやると乱雑に積まれた仕事の書類の山、黄色や水色の付箋が貼り付けられ書き込まれた男っぽい字は雅樹のモノだった。
(字は……変わらないんだね)
十年前は見慣れた文字、力強い字体は今も変わらない。
見慣れない書類に交じって広げられたB4の紙に目が留まった。
それは真子が持って来た書類と同じ物で、等間隔に並んだ丸い図形の周りに記入された名前。
何度も書き直した跡はかなり思案している証だった。
(仕事……大変なのに……)
帰国した雅樹はすぐに実家でもある会社に入社し、他の社員と一緒に仕事をする傍らで社長である父の仕事を学んでいる。
連日のように深夜近くに帰宅して、たまに早く帰って来ても書斎に篭ることも多い。
そんな慌しい忙しさにも関わらず雅樹は結婚式の日取りを決め真子と一緒に生活を始めることを望んだ。
反対されることもなく当たり前のように二人は新しい家具達に囲まれて生活をスタートさせた。
だが十年の空白を埋めるような束の間の甘い恋人期間が待っていると思っていた真子は少しだけ釈然としないことがあった。
「ホントに疲れてるんだね……」
眠る雅樹を見てポツリと呟く声には労わりと少しだけ不満を見せる。
毎日ほぼ定時で帰れる自分と、新しい職場で慣れない仕事をする雅樹とでは日々の忙しさは比ではないことは分かっていた。
ましてやそんな忙しい日々の中で雅樹は嫌な顔一つせずに結婚式の準備も打ち合わせにも協力的。
だから自分は不満を言ってはいけない。
真子はつい出てしまいそうになる愚痴を胸の奥へと押し込んだ。
喉元まで出掛かったため息を呑み込んだ真子は空になったコーヒーカップを持って静かに部屋を出た。
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