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『三つの顔』

 梅雨が明けてる少し前から連日のように空は青天で、目覚めると蝉が夏の始まりを喜ぶように大合唱。

「暑いー」

 言ったところで涼しくなるわけではないと分かっていてもつい口から出てしまう言葉。

 持っていたタオルハンカチで額の汗を押さえながら空を見上げれば、抜けるような青空でギラギラとした太陽の熱が肌を焦がしていくのを感じた。

「暑いー」

「無駄口を叩かず、さっさと歩け」

 ぐったりしながらもう一言漏らせばまるで冬の北風のように冷たい声が返って来た。

 目が痛くなるほど眩しい空から視線を下ろすと斜め前を歩くグレーのスーツの後ろ姿が目に入った。

「課長は暑くないんですか?」

 置いて行かれないように早足で隣りに並んで声を掛けた。

 夏の恒例行事でもある挨拶回りに荷物持ちとして同行しているのだけれど、隣りに立つ我が営業一課の如月課長は今日も一寸の乱れもなくスーツを着こなしている。

(うわぁ……汗一つ掻いてないし)

 オールバックの額には汗も浮かんでおらず涼しい顔、きっちり締められたネクタイの首周りも汗が滲んでいる様子もない。

「夏なら暑くて当然だ」

「いや……そうなんですけど……」

 そんな返答にさっきまで営業スマイルに見惚れていた取引先の女子社員に「あれは心証良くするために演じた仕事の出来る男(実際出来るけれど)の如月課長の顔、これが本性です」と教えたくなった。

 そもそも営業用の笑顔なのだからそれはそれで本来の目的を達していて間違ってはいないのだけれど……。

(でも……なんだかなぁ)

「……ちょっとくらい、優しくしてくれてもいいのに」

 仕事で二人きりで外に出られることに少し(本当はかなり)喜んでいただけに、暑さも手伝ってイライラ指数はグングン上昇し続けている。

 思わず漏れた本音は昼間の喧噪に簡単に掻き消されるほど小さかった。

「なんか言ったか?」

「何でもありませんー」

 聞こえていなかったことにホッとしながらも悔しくて、さりげなく歩調を緩めながら見つからないように舌をベッと出した。

(仕事中だから仕方がないんだけどね……)

 社会人らしくそう言い聞かせてはみたものの、どうしても引っ掛るのはその口調。

 仕事中ならば「部下の面倒見がいい穏やかで優しい如月課長の顔」のはず、今だって仕事中のはずなのに「さっさと歩け」はないと思う。

「如月です。えぇ……何かありますか? そうですね、……三時頃には戻ります。四時頃には時間が取れると伝えて下さい」

 少し歩いて駐車場に着くと一服とばかりにタバコを吸いながら会社に定期連絡を入れている。

 優しく穏やかな口調で応対する姿はいかにも部下に慕われてますって課長の顔。

(二重人格じゃなくて、三重人格!?)

 エアコン全開の車内からその横顔を覗き見ているとやっぱり色々と納得がいかないことばかり、しかもいくらエアコン全開とはいえ車内はまるでサウナのようでイライラ指数はそろそろ限界を突破しようとしていた。

(本当なら……彼女に一番優しい顔見せてもいいと思うんですけど)

 さすがに口に出す勇気はなくて心の中で呟いているとタバコを吸い終わって車に乗り込んで来た。

「少し早いが昼飯にするか。何がいい」

「何でも」

 言ってから可愛げのない返事だと気付いたけれど遅かった。

 ハンドルに手を乗せたまま動かずに顔だけをこっちに向けているのを気配で感じ取った。

(怒られる……かも)

 何を言われるのかビクビクしながら顔を上げることも出来ず、車内はいまだ全開のエアコンの風の音だけしか聞こえない。

「じゃあ、味噌煮込みうどんにするか」

「エェェェッッ!?」

 直前の落ち込みもふっ飛ばすほどの威力のある言葉に慌てて顔を上げた。

(…………あ)

 顔を上げたのに次の言葉が出て来ない。

「何でもいいんだろ? 俺が食いたいんだ、お前も付き合え」

 この暑いのによりによって味噌煮込みうどん、一体何を考えているのか分らないと言うはずだった文句はどこかへ消えてしまった。

 こっちを見ているその瞳は意地悪で言ってることは超俺様。

 それなのに伸ばされた手が言葉とは裏腹に優しく耳の裏を撫でればどうでも良くなってしまうから不思議。

 簡単に懐柔されてしまうのを悟られたくなくて精一杯の抵抗を試みた。

「あ……汗、掻きたくない……んですけど……」

「昨夜は二人でたっぷり掻いたのに?」

 音もなく近付いた顔に驚いているうちに耳元でソッと囁かれて体がビクッとする、スッと離れてニヤッと唇の端を上げた笑みを向けられると体温が一気に上昇していくのを感じた。

(ヤダッ……何、これ……)

 鏡で確認するまでもなく頬や耳が赤くなっているのは間違いない。

(もうなんでいちいち……そんな言い方……)

「シーツだけじゃなくマットも濡らして使い物にならなくなったのは汗だけじゃなかったよな? お前の……」

 喉の奥で笑われて羞恥と怒りでさらに体温が上昇したせいか額に汗が浮かび、それ以上言葉を続けないように強引に言葉を遮った。

「蕎麦! 私は蕎麦が食べたいですっ!」

「クククッ……」

 乱暴にハンカチタオルで汗を拭って、フロントガラスの向こうに視線を移した。

 ムッとしているうちに車は静かに炎天下の熱いアスファルトの上へと滑り出す。

 相変わらずエアコン全開の車内は暑いことに変わりはない、それなのにほんの少しひんやりする手に左手を掴まえられてイライラ指数はあっという間に平常値。

(味噌煮込みうどんでもいいかも……)

 意地悪な笑みと声で優しく手を伸ばす「意地悪な恋人の顔」を知っているのは自分だけという優越感はどんな薬よりも特効薬になった。

end


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