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『春雨』
小さな花が一つまた一つ開き、街がほんのり桜色に染まり始めた頃。
朝から空は鈍色の雲に埋め尽くされ、昨夜から降り続いていた霧雨は夜明けと共に雨足は強さを増している。
朝の中塚家ではいつものように麻衣が慌しく出勤準備をしていた。
「おはよ」
「あれ……陸? おはよ?」
しっかりしたその声に驚いた麻衣は振り返って目を瞠った。
いつもならまだぐっすり夢の中か気だるいまどろみに身体を預けているはずの陸が起き上がっている。
寝起きでまだぼんやりした顔の陸は大きな口で欠伸をしながら寝乱れた前髪をかき上げた。
「まだ七時半前だよ? 寝てたら?」
「んー」
生返事しながらもベッドから下りた陸はボタンを半分ほどしか留めていないパジャマから惜しげもなく肌を晒していた。
いつもは隙なくセットされている髪には寝癖がつき、夜には妖艶な色を見せる瞳も寝起きのせいか幼くどこかぼんやりとしている。
麻衣はそんな陸を見て小さく微笑んだ。
(可愛いって言ったら怒るけど……やっぱり可愛い)
仕事をしている陸しか知らない人が見たらきっと目を疑うに違いない。
陸は夜の街に出れば女性に夢を与えるホスト、それも店で一番の売上げを稼ぐナンバーワンホスト。
「麻衣ー」
「ん?」
甘えた声を出しながら近付いた陸は麻衣を片手で抱き寄せた。
腰に回した手に力を入れると額に軽く唇で触れ、微笑んでからまだ口紅の塗っていない唇に優しいキスをしてこれでもかというほどゆっくり離れる。
「顔、洗ってくる」
「起きるの?」
「ん」
「ご飯は? 食べる?」
「野菜ジュース」
まだ寝惚けているのか短く答えた陸がふらふらと寝室を出て行くと麻衣は首を傾げた。
(どうしたんだろ……)
いつもならベッドの中で麻衣を見送り、そのまま昼頃まで眠っているはず。
麻衣は少し考えていたが出勤時間も迫ってきてあまり深くは考えず準備の続きを再開した。
「陸ー! そろそろ行くねー」
雨が降っているということもあっていつもより五分ほど早く出ようとした麻衣は準備を終えると玄関から陸に声を掛けた。
靴を履き傘を手にした麻衣は近付いて来た足音に振り返った。
「陸?」
寝癖もすっかり直りスッキリした顔の陸は着替えて靴を履こうとしている。
「どこか行くの?」
「雨、結構降ってるでしょ」
「う、うん?」
「会社まで送る。雨の日の電車、苦手だろ?」
事も無げに言った陸は手の中で鍵を鳴らしながら玄関の扉を開けるとポカンとしている麻衣を促した。
外に出た麻衣は背中で鍵を掛ける音を聞きながら口元を緩めた。
隣に並んで一緒に歩き出した陸の左手が自然と麻衣の手を握り、花冷えの朝の空気を吸い込みながら二人は身体を寄せた。
桜を散らしてしまう冷たい雨も今朝だけは優しく感じられた。
end
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