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『桜唇』後編
暖かい日が続いた週末、朝から晴れ渡る青空と髪を撫でる優しい風。
テレビでは朝からどこの放送局も花見情報を欠かさない、俗っぽいとバカにしたい気持ちは山々だが頭上には満開の桜。
「きーーーれぇーーー」
首を後ろに倒し大きく開けた口からは感嘆の声、隣に並ぶかのこはさっきからそれしか言わない。
実家の桜は今年も見事な花を咲かせ、花の一つ一つはとても可憐なのに立姿はとても荘厳だ。
「ありがとう、和真」
本当に嬉しそうな顔でそんなことを言われたら、父にあの人を連れ出してくれるよう頼んだかいがあったというものだ。
頭上の桜よりも濃いピンク色のシフォンワンピースを着たかのこは飽きることがないのかまだ桜を見上げている。
最初は一緒になって桜を見上げていた俺はいつの間にかかのこから目を離せなくなっていた。
愛しいという想いが込み上げる。
薄く色づく唇に触れたくて手を伸ばそうとすると突然強い風が枝を揺らした。
ザアッと枝が揺れる音と同時に薄桜の花弁が舞い天花のように降って来る。
「うわあ……」
かの子が驚いたように声を上げた。
風に揺らされる髪もそれを押さえる手も、まったく違うはずなのに心が奪われ息が止まった。
あの日の記憶が重なる。
遠い昔のことなのにまったく色褪せない、あの日の空気の匂いと風の強さ、そして凛とした姿が一気に蘇った。
生まれて初めての気持ちを俺に教えてくれた人、ずっと心の中で生き続けこれからも誰も触れられない心の奥にいるはずだった。
「か……ずま? どうしたの?」
不安そうなかのこの声にハッとすれば、さっきまで桜に夢中だったかのこの瞳が真っ直ぐ俺を見上げている。
「あ、ああ……なんでもない」
いつか……あの時のことをかのこが知る時が来る、その時に俺は自分の口で真実を伝えられるだろうか。
今も隠している後ろめたさはかのこを裏切っているような気持ちにさせる。
「本当は嫌……だったんでしょう? それなのに私が見たいなんて言ったから……和真、無理してくれたんだよね? その……さっきお義母さんは留守だって言ってたし、もしかして……」
「見たかったんだろう?」
「そ……だけど」
かのこの言葉を遮るように口を挟めば、かのこは迷いながらも頷いた。
「なら、いい」
「でも……」
「お前は思ったことを口にすればいい、お前が望む事は俺が叶えてやる」
思っていることを素直に言葉にしてくれた方がどんなに安心か分からない。
自分のことは棚に上げてそう言うとかのこはようやく顔を綻ばせた。
「ありがとう」
恥ずかしそうに俺を見上げるかのこに自然と手が伸びた、風で乱れた髪ごと引き寄せて唇を重ねる。
外でするには濃厚なキスに頬を染め、唇を離した後もかのこの瞳には俺が映っている。
同じように俺の瞳にもかのこしか映っていない、それは気持ちの上でも真実だけれど……。
いつか本当に何のわだかまりもなくこの桜の木の下に立てる日が来るまで、もう少しだけ時間が掛かりそうだ。
まだ口に出来ないことを心の中で詫び、もう一度小さな唇にキスをした。
end
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