書斎 (十二國記)
 その日、延后妃は早朝から非常に多忙であった。
 政務に関しては『怠惰』が自慢の王や麒麟とは違い、后妃美凰は時間内にきちんと執務をこなす。
 高貴な身でありながら冬官府を任され、特別顧問として冬官長と同等の権限を持ち、また后妃として後宮の総括を任されている美凰は心の休まる暇もない程に多忙であるにも係わらず、聡明な智慧と人心掌握術を以って臣下を切り盛りしていたので、大抵がゆとりのある日々を送れていたのである。
 それなのに…。
 何故か今日は、いつも以上に忙しい。
 何故なのか?
 それは『怠惰』な王と麒麟のせいである。



 雁国は玄英宮内、后妃が政務を執る小寝典章殿。
 質素な官吏服に身を包んだ美凰は、早朝から史書が差し出す書簡に眼を通し、官僚達の意見に耳を傾けていた。
 延王尚隆直々に選抜した官僚、黄氏・黒氏・青氏・白氏・赤氏の五卿は優秀な頭脳と人品骨柄を以って、この愛すべき后妃に仕え、彼女も彼らに深い信頼を置いていたのである。

「では、この案件はその様に取り計らってくださいませ」
「御意…」

 恭しく立礼する諸官達を促しつつ、決裁した案件に御名御璽を捺印した美凰は次の書簡に眼を通し始めた。
 と、その時…。

「美凰〜」
「まあ、六太…」

 院子に面した扉から、寝ぼけ眼で入室してきた六太に美凰は瞠目した。
 その後ろからは仁重殿の侍官達が執務用の官服官帽や宝珠、それに袍まで手にして寝起きの麒麟の後を追いかけてきている。
 見慣れたいつもの光景に美凰はくすくす笑った。
 寝起きの悪い六太の事、また寝坊をして朝議をサボったらしい。
 六太は欠伸をしつつ眼を擦り擦り、美凰の傍にやってきた。

「またお寝坊でいらっしゃいましたの? 間もなく十刻でしてよ」
「う〜…」
「曹凛どの。少し早うございますが、しばし休息いたしましょう。皆さまもよろしゅうございまして?」

 后妃の優しい言葉に、典章殿頭史書の曹凛もやれやれという表情で頷いた。 

「畏まりました」
「はは…」

 官僚たちも苦笑しつつそれぞれ頷く。
 女官に休息とお茶を依頼した美凰は、自らの膝にしがみついてぐずっている六太の頭を撫でながら、美しい髪に挿している金の櫛を手に取った。

「さあ、六太。お髪を梳いて差し上げます。洗面はもうお済ませなのでございましょう?」
「うん…」

 仁重殿の侍官達は毎度の事ながら恐縮の体で、美凰の傍に侍っていた。
 麒麟の身支度をてきぱきと整えてやり、最後に孔雀の羽のついた官帽を被せてやった美凰はにっこりと六太に微笑みかけた。 

「さあ、これでよろしくてよ。しっかりと執務をこなしていらしてくださいませ。お夕餉は六太のお好きな湯豆腐をお作りいたしますわ」

 やっと目覚め始めた六太の瞳がぱっと輝いた。

「うぉっ! あの湯、すんげぇ美味いんだよなぁ〜 楽しみ楽しみ!」

 美凰は立ち上がり、六太と連れ立って廊下まで出ると礼儀正しく立礼をした。

「いっていらっしゃいませ」
「うぉ〜い!!!」

 優しいお見送りに六太はご機嫌宜しく小寝を飛び出し、仁重殿の侍官達は美凰に平謝り状態でその後を追いかけた。

「皆さま、お待たせいたしました。さあ、続きを…」

 そう云ってにっこり振り返った美凰は、再び執務を開始した。





「美凰様。今日は殊の他、決裁をお急ぎでいらっしゃいますな?」

 午餐も早めに切り上げ、大方の政務が片付いた午後の三刻頃、花茶を差し出した曹凛の不思議そうな問いかけに、美凰は美しい花顔を薄っすら染めた。

「実は朱衡どのから漢籍を数冊、頂戴しましたの」
「ははあ…。成程」
「一刻も早く拝読したくてならないのですが、この調子では…」
「然様でございますなぁ」
「手前勝手な事で、誠に申し訳ございませぬ」
「……」

 美凰の書籍好きは、自他共に認めるものである。
 早朝五刻から午後四刻まで、常に多忙な后妃が僅かに自由な時間を持てるのは夕餉の指揮に取り掛かる前の半刻ばかりであった。
 夕刻以降の時間は総て王のものなので、ゆっくりと書を紐解くなど夢のまた夢なのだ。
 その事に不満などあろう筈もないが、たまには夜の一刻を読書三昧で過ごしてみたいと思う美凰であった。

「如何でございます? 後のものは明日にでもご裁可賜れれば宜しゅうございますし、本日はこれまでになされましては?」

 有限実行、日々勤勉な后妃のささやかな願いに曹凛を始め五卿達は、にこにこと頷きあった。
 凡そ、正寝や仁重殿では見受けられない光景である。

「でも…」
「然様でございます。后妃様におかれましてはここ数日、特にご政務に励まれておわします。ここにございます案件に人心の命に関わるものはございませぬ程に、最良の策を明日までに我ら五卿が献策申し上げ奉りますれば、本日はこれまでとなさいませ」

 次々と飛び交う臣下達の温かい思いやりの言葉に、可愛らしく呻吟していた美凰はついに折れて立ち上がった。

「それでは…、本日の政務はここまでに致しますわ」
「御意。それではまた明日」
「皆さま、ごきげんよう…」
「はは…」

 いそいそと北宮に戻って行く美凰を柱の影に身を潜めて見つめている漢の事など露知らぬ官吏達は、にこやかに后妃を送り出し、その玉体に向かって深々と立礼をしていた。





 小寝典章殿から鴛鴦殿に戻った美凰は「お夕餉のお支度まで、半刻ばかり『書房』に籠もります。陛下や六太からお呼び出しがございましたら、声をかけください」と、桂英達に嬉しそうに声をかけつつ、急ぎ足で臥室に向かった。

「まあまあ! 美凰様には大層嬉しそうなご様子でいらっしゃる事!」

 桂英はにこにこと慰労の茶菓支度を整えながら、李花と明霞に美凰の着替えを手伝う様に目配せをした。

「春官長様から大好きな書籍のお差し入れがございましたからねぇ〜」
「大車輪でご政務を御されたご様子でいらっしゃいますわね!」

 二人の女官は大はしゃぎしながら居間をすり抜けると后妃の臥室の扉を開け、一瞬固まった後、顔面蒼白になって扉を静かに閉めた。

「「?!?!?!」」
「? 李花? 明霞? どうしたのです? 早く美凰様のお召し替えのお支度を…」

 桂英の背後からの問いかけに、李花と明霞はがっくりと項垂れた。

「遅うございました…」
「えっ?」
「お召し替えの必要は…、皆無のご様子ですわ…」
「???」

 二人の態度が腑に落ちない桂英は臥室の扉に歩み寄り「失礼いたします…」と、扉を開けた…。

『へ、陛下! い、いけませんわ!』
『夕餉の支度まで半刻もある』
『で、でも…』

 桂英の眼に見慣れた艶かしい裸身が映り、その真珠の素肌を撫で廻している王の姿が飛び込んできた。

〔一体、いつの間に?!〕

『書物が読みたいからとて執務をさぼり、書斎に籠もろうとは言語道断にして不届きな奴だ! 俺が今からその性根を処罰してくれるぞ!』
『あっ! ど、どうぞ、お、お許しあそばして…』

 臥台に美凰が押し倒される様を確認した桂英は、頭痛のしだしたこめかみを押さえながら静かに扉を閉めた。





「何が処罰だか?! ご自身は毎日だらだらとご政務をさぼっては朱衡殿や帷湍殿に絞られておいでだというのに!」

 桂英の背後で、李花と明霞が口惜しげに苦い表情をしていた。

「桂英様〜 どういたしましょう〜」
「どうにもこうにも、こうなればお夕餉のお支度まではどうする事も出来ません」
「でも、折角の美凰様のお時間が…」
「仕方ありませんよ。いつもの如く、主上の御手に捕獲されておしまいなのですから…」
「「はあ…」」

 女達がげんなりと三々五々、各自の仕事に戻ってゆく中、臥室の王と后妃は愛のひとときを過ごした。





『ああっ! へ、陛下…』
『そなたが今現在、俺に抱かれて何も感じないのであれば、今宵にも書を紐解く時間を与えてやるぞ! ほれほれ!』
『あっ! い、意地悪で…、いらっしゃいますわ…。あぁぁん!』

 后妃が書斎で、誰にも邪魔をされずに読書のひとときを過ごせるのは、一体いつの事なのか?
 それは誰にも解らない…。

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