夢をみた…。
愛しい妻と出逢った頃の、随分と昔の夢を…。
眼下の皇女は暁星の双眸を潤ませ、じっと俺を見あげていた。
一点の曇りもない、汚れなき青菫色の瞳…。
想う女の瞳に映る自分を見つめるのがこんなに嬉しいものだとは、思いもよらなかった。
彼女が案じ続けていた血族の死後の扱いを告げた瞬間、薔薇色に染まった頬を真珠の雫がほろほろと零れ落ち、我慢し続けていた感情は堰を切って滂沱の涙と化す…。
瞬きするのも忘れ、真っ直ぐ俺を見つめる美しい明眸は、やがて雪の様に白い繊手の中に隠された。
両手で花顔を覆った皇女の次の行動、咄嗟の投身行為をさっととどめた俺はそのまま柔らかな玉体をしっかりと抱き締めた。
『いっそ、わたくしが死んでいればよかったのです…』
その悲痛な言葉は、我が身を八つ裂きにされるより苦しかった…。
『莫迦を申すな! 俺を殺す気か?!』
『……』
身もがく柔らかな肢体を強く抱き締めた瞬間、俺は己の恋情を認めた。
出逢った時から皇女を我がものにしたいと思った。
后妃に迎えてもよいとまで執着した女は初めてだった。
だが、海を渡る風の様に何者にも囚われたくないという俺の性分はその執着心を恐れた。
国と民の幸せの為だけに、俺はここに存在する。
雁を繁栄させる仕事は、かつて失った瀬戸内の民たちへの鎮魂でもあったのだ。
自分は国と民の為だけに生きなければならない…。
だが…。
〔俺は狂う! この女を失えば…。そして任されたこの国は再び破滅だ! 以前にも増して、跡形もなく…〕
生き残った瞬間から俺はずっと暗闇の中を生きてきた。
眼を凝らし、手探りをし、心を張り詰めて生きてきた。
得体の知れないものが転がれば容赦なく切り捨て、排除すべきものは剣で払い落とした。
女に関しては、時と共に次々に変わる刹那の楽しみに身を任せ続けた。
百五十年という月日を、たった独りで生きてきたのだ…。
ほんの二月程前、故国を追われた皇女は不思議な鳳凰の花簪の縁によって俺の元へと導かれた。
切り捨てることも払い落とすことも出来ない、この上もなく美しい存在…。
刹那の楽しみに想いをすげ替える事など、許されない唯一無二の存在…。
俺は自らの執着心を恐れながらも、ますます皇女に近づいていった。
対する彼女は因縁の漢に似た俺を恐れ、容易に心を開かない。
近づきたい…。もっと近づきたいのだ…。
艶やかな牡丹花の乙女。
俺だけの…、天女。
『そなたが好きだ…』
『わたくしは、陛下に相応しい女ではございませぬ』
『それは俺自身が決める事だ。俺が相応しいと希んだ。俺の妻になれ!』
俺の妻になれ…。
季節は初夏だというのに、握り締めた白魚の繊手は瘧にかかった様に顫え、凍えていた…。
数ヶ月の後、寸刻みにも似た俺の烈しい求めに脅えながらも、皇女はおずおずと俺の傍へ近づいて来る様になった。
そしてあの運命の夜、皇女はその美しい全てを俺の眼前に差し出したのだ。
愛しい乙女を決して逃がさぬ様、その凍えた白い指先を温めてやりたかった。
俺の全てが皇女を求めていた。
だが、岳父上たる二郎眞君から聞かされた皇女の処遇を脳裡に浮かべた瞬間、国の為の存在意義である己の立場を優先した俺は地獄を垣間見る事になったのだ。
『尚隆さま…』
牡丹の燈籠を掲げて俺を見つめる美しき天女、美凰。
紫がかったつややかな黒髪、真珠の輝きを持つあでやかな柔肌…。
『美凰…』
美凰は神々しい微笑を浮かべながら、その白い指先を俺の眼前に差し出した。
もう二度と、凍えさせまい。
決して彼女を逃さぬ様、俺は思い切って彼女の手を握り締めた…。
「陛下?」
「!?」
俺ははっとなって眼を開けた。
腕の中で眠っていた美凰が身を起こし、訝しげに美しい双眸をこちらに向けていた。
「…、如何あそばしましたの? 急に御手を…」
「…、すまん…。痛かったか?」
美凰は優しくかぶりを振った。
「いいえ。大丈夫ですわ。なにか、奇妙な夢でもご覧になりましたの?」
俺は苦笑しながら身体を起こすと、心配げにこちらを見つめている美凰の肢体をぎゅっと抱き締めた。
「? 尚隆さま…」
「随分昔の夢をみた。…、天女の夢だ」
「まあ?! 天女でございますって?!」
忽ちの内に悋気の色を為す青菫の瞳に、気分を良くした俺はくつくつと笑いかけた。
「嫉妬か?」
「ぞ、存じませんわ! きゃっ…」
抱き締めた腕から逃れようと身もがく美凰を俺はしっかりと抱きかかえ、そのまま愛しい妃を褥に組み伏した。
「そなただ…」
「えっ?」
俺は柳眉を顰めている美凰を見た。
「天女はそなただ…」
「ま、まあ…」
「そなたがそなた自身に妬く必要はなかろう?」
練絹の様にすべらかな頬が仄かな薔薇色に染まる。
「…、いやな陛下…」
含羞の体で艶冶な眼差しを向けてきた芙蓉花の朱唇を、俺の唇が制した。
「俺にとっての天女は、そなた以外にはおらぬ…」
「嬉しい…」
美凰は羞みながらも柔らかく微笑んだ。
俺の心を蕩けさせる、いつもの笑顔だった。
「指は…」
「はい?」
俺の胸に縋りついていた手に手を這わせ、指をそっと絡ませる。
「指は凍えておらぬか?」
「? 大丈夫でございますわ。尚隆さま…」
俺が絡ませた指に、吸い付く様に白い指が絡まり返してきた。
優しい、そして温かい指先だった。
「……」
夢の中の神々しい表情も羞かしげに柔らかく微笑む花顔も、どちらも愛しい。
俺は腕の中の美凰を包み込む様に抱き締めると、夜毎の睦言を囁き始めた…。
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