眠っていた俺の耳に何かが聞こえた。
美凰の声だ。
共寝をしていた筈の柔らかな身体が腕の中にいない。
どこかから唄が聞こえてくる。
唄を…、唄っているのか?
耳にしたことのない唄。
よく分からないが、優しく、柔らかい唄声…。
ベッドから起き上がった俺は、ガウンを羽織って声のする方に向かって歩き出した…。
「美凰…」
バルコニーから流れていた唄が途切れる。
背後から掛けられた声に、美凰は静かに振り向いた。
「…、ごめんなさい。お起こししてしまいましたのね…」
微かに羞かんだ様な色を浮かべる美凰の背中を、尚隆は自分の身体で優しく包み込んだ。
僅かに潤んだ黒曜石の瞳が胸を突く。
聞かなくても分かっていた。
何が彼女の瞳を濡らすのか。
彼女が何を考えていたのかを。
「聴いた事のない、唄だったが?」
美凰は尚隆の胸に頭を預けながら暗闇を見つめる。
「…、子守唄ですわ…」
ぽつりと呟く声を耳にして、尚隆は継ぐべき言葉を失った。
「亡くなった母が、幼い頃によく唄ってくださった子守唄…」
「美凰…」
「わたくしも…、唄ってあげたかったの…。ひとりぼっちで…、手の届かない処へ行ってしまったわたくし達の坊やに…、せめて…」
小刻みに揺れる嫋々とした身体を抱きしめる逞しい腕に、僅かに力が籠もる。
「聞かせてくれるか? 俺にも…」
「上手く…、唄えませんの…。それでも構いませんか?」
涙声では上手く唄えない。
美凰はそう言った。
「構わん。俺は…、母の子守唄をついぞ聞いた事がないのでな。どんなものか…、聞いてみたい…」
「……」
風に揺れる小さな花にも似た、唄声が聞こえる。
聞こえているか?
お前の母が、お前の為に歌う声が…。
この唄声こそは、紛れもなくお前がこの世にいた証…。
静謐の中、途切れ途切れに失った子どもへの愛の歌を紡ぐ美凰を抱き締めたまま、尚隆は遠い空を見遣った。
己の知らぬ間に愛する女の胎内に宿り、そして己の不注意で光を見ることなく旅立っていった我が子。
〔お前を守ってやることが出来なかった。どうか…、どうか許してくれ…〕
自らが唄ってやるべきだった子守唄の名前はない。
そして父としての尚隆が抱いた、哀しい思いを知る者は彼の妻以外にない…。
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