夏至の頃 (十二國記)
 別院深深夏蕈清  別院深深 夏蕈(かてん)清し
 石榴開遍透簾明  石榴開くこと遍く 簾を透して明らかなり
 樹陰満地日當午  樹陰 地に満ちて 日は午に當たる
 夢覺流鶯時一声  夢覚むれば 流鶯 時に一声


 夏茣蓙はひんやりと涼しく
 簾越しに柘榴の花が明るく咲き揃う
 木陰は院子に広がり 太陽は真上にある
 昼寝の夢からふと目覚めれば 枝を渡る鶯の声

       蘇舜欽「夏意」



 金魚鉢の中を涼しげに泳いでいた金魚がぱしゃりと撥ねた水音に、木陰に設えた茣蓙の上でのんびり昼寝を決め込んでいた尚隆は転寝からぼんやりと目覚めた。

「……」

 間もなく夏至が近いとはいえ、今日の暑さは集中力を欠く程だ。
 日常の執務に対して王に集中力がないのはいつもの事なのだが、またぞろさぼり癖が出た尚隆は朱衡達の眼を盗んで早々に正寝から逃亡し、北宮に舞い戻るや早めの午餐を摂り、昼寝を託ちつつ愛妃の執務が終わるのをずっと待っていたのである。

〔まだ戻って来ぬのか…。今日の執務は長引いているとみえる…〕

 平素は午前中で典章殿から戻っている筈の美凰は、午餐が終わっても未だ戻らない。
 その理由は解っている。
 夏至が近づいている為、丸一日を留守にする美凰は執務を前倒しで片付けているのだ。

〔あと三日で、安闔日か…〕

 尚隆は秀麗な面に苦悶の色を浮かべた。
 年に四度の安闔日は尚隆にとって、そして雁州国にとって全神経を張りつめる息苦しい不安の一日。
 この日は丸一日、雁国后妃がこの国を留守にする。
 延王尚隆最愛の内(つま)である后妃美凰が、崑崙の玉皇帝の許へ拝謁に伺わねばならぬ定めの日なのだ。
 玉皇の美凰への恋慕は三百五十年の月日を経て、なお変わることがない。
 いつ何時、愛する美凰を奪われはしまいか?
 それを考えるだけで安闔日間近になる度、尚隆の心は絶望の満ち溢れる。
 そして王の絶望が現実になった瞬間、北方の大国『雁』は荒涼とした傾国に晒されるのだ。

〔美凰! 美凰! 美凰…〕

 臓腑が引き裂かれそうな程の痛み…。
 ぎゅっと眼を閉じた尚隆が目蓋の上に腕を乗せ、深々と吐息をついた瞬間…。

「まあ。お目覚めになられましたの?」
「む?」

 声のした方に慌てて首を廻らすと、涼しげな紗の団扇を手にした美凰が金魚に餌をやっている姿が映った。

「遠目に窺って、とても気持ちよさげでいらっしゃいましたからこっそりお傍に寄らせて戴きましたのに…」

 尚隆は上半身を起こし、愛する后をじっと見つめた。

「こっそりとはなんだ? 驚かせる心積りだったのか?」
「さあ?」

 ゆっくりと近づいてくる花顔は柔らかな微笑を浮かべている。
 青菫の双眸は煌めいて、愛情深く良人を見つめ返していた。

「午睡をあそばされるのでございましたら、美凰のお膝を枕になさっては如何でございますか?」

 そう云うと、美凰は尚隆の傍に膝を折った。

「据え膳喰わぬは男の恥と申す故な。遠慮なく枕にさせて貰うぞ…」

 尚隆はくつくつと笑いながら柔らかな膝に頭を乗せた。
 その尚隆の首許に、美凰は団扇でゆっくりと風を送る。

「心地、良いな…」
「それは宜しゅうございました」
「…。美凰…」
「はい?」

 不意に尚隆は柔らかな腿に顔を擦りつけながら、ふっくらした美凰の腰に両手を廻した。

「陛下? 如何なさいましたの?」
「……」

 逞しい背中が小刻みに揺れている様子に、美凰ははっとなった。
 良人の不安に、胸が締めつけられる程に痛々しい思いと溢れんばかりの愛しさが込み上げる。
 美凰は宥めるように尚隆の頭を何度も撫でた。

「尚隆さま…」
「俺は…」
「どうぞご心配あそばさないで。わたくしは尚隆さまだけのものでございますわ」
「……」
「さあ。少し、お寝みあそばしませ。ずっと、お傍に侍っておりますゆえ…」
「そなたは…、消えぬな?」

 くぐもった漢の声を安堵させるべく、美凰は努めて明るく返事をした。

「勿論ですわ。尚隆さまを置いて消えたりなどいたしませぬ。美凰には…、あなたさまだけしか見えませぬ」
「美凰…」

 尚隆はそっと顔をあげ、愛する内を見上げた。
 大好きな琥珀色の双眸が深い金茶色に翳っている様が痛々しい。
 美凰は思わず、良人の顔に花顔を近づけ、秀でた額に、通った鼻筋に、弾力ある頬に唇を寄せて愛しげに接吻を繰り返した。

「唇には、してくれぬのか?」

 心地良さげに美凰からの積極的な愛撫を受けていた尚隆は、上体を起して愛妃の身体を羽交い絞めにした。
 平素の通り、美凰が尚隆の腕の中に抱き込まれた格好になる。
 美凰は羞恥に頬を赫く染めながら、愛する良人の太い首に白い腕を彷徨わせた。

「唇は…、尚隆さまに権利をお譲りいたしましすわ…」
「美凰…」

 芙蓉花を思わせる朱唇に熱い唇が重ねられる。
 愛を込めて、深く深く…。



「この暑い中、いくらお好きだからって姫様もよくまああれだけべったりくっついていられるわね!」

 金魚鉢の傍で桃猫姿の桃箒がしなやかに伸びをして主夫婦の様子を眺めていたが、位置替えをして横たわると再び惰眠を貪り始める。
 夏の日差しが煌めき、鶯がのんびりと鳴き声を響かせる中、愛し合う鴛鴦夫婦は木陰で避暑をしつつ熱い午後のひとときを睦み合いながら過ごし続けた…。

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