茶の席 (十二國記)
「投扇興?」
「ええ。海客から伝わった遊びですが、原型は美凰の故郷である崑崙の『投壺〔つぼうち〕』という遊興を参考にしているのだそうですよ」
「まあ…」

 美凰は物珍しげに『投扇興』の道具をしげしげと眺めた。
 久々に飲茶でもしませんかと慶国へ青鳥を飛ばした延后妃美凰の招待に応じ、景王陽子が祥瓊と鈴を連れて雁国玄英宮のお茶の席へと遊びにやってきたのは昨日の事である。
 生憎、延王尚隆は不在であったが、そこは女同士の事。
 際限ないお喋りに楽しい時間は忽ちの内に過ぎてしまう。
 そこで陽子は今回の飲茶招待のお礼として、雅で珍しい遊具を美凰への進物として持参したのである。
 飲茶を中断した美凰達は四阿に緋毛氈を敷き、いそいそと『投扇興』の準備を始めた…。



 遊び方としては次の通りである。
 一間×半間の緋毛氈を敷き、毛氈の両端の外に褥を置く。
 毛氈の中央に枕(台)を置いてその上に蝶(的玉)を準備する。
 次に褥から膝が出ないように正座し、片手で扇子の要の部分を持ち、蝶(的玉)に向けて投げ、扇子を蝶(的玉)に当てて落とすという単純明快なもの。
 そしてその、落ちた扇子と蝶(的玉)の位置や形によって得点を競うという雅な遊戯に、美凰は忽ちの内に夢中になった…。



「やあ!『澪標』ですね。これは素晴らしいですよ、美凰! 追加で十一点と…」

 扇が枕の上に乗った状態の形で点数を稼いだ美凰は、嬉しそうに両手を合わせて陽子を見つめた。

「まあ! 嬉しいこと!」
「姦しい声がしていると思えば、やはりお前達か?」

 聞き慣れた男らしい低い声に美凰は満面に花の様な微笑を浮かべて背後を振り返り、優雅に立ち上がった。

「まあ、陛下!」
「あっ、延王! お邪魔してます!」
「ご機嫌麗しゅう!」
「お元気そうでいらっしゃいますね?」

 慶国三人娘?達の挨拶に、尚隆は苦笑しつつ院子から四阿に入ってきた。

「お戻りあそばしませ…」

 愛する良人を恭しく出迎えた美凰の腰を引き寄せると、尚隆はいつもの様に帰城のくちづけを愛妃に与える。
 人前でも恥ずかしがらず、平気でそういう態度を取る鴛鴦夫婦の様子にももう慣れた。
 慶国の娘達はくすくす笑いつつ、素知らぬふりをして遊戯の方に向き直った。

「よぉーし! 次、あたしね!」

 そう云って扇を手に構えた祥瓊の様子に、尚隆は「ほほう?!」と声をあげた。

「これは珍しい。投扇か?」
「ええ! 飲茶のご招待にお礼として持参したんですが…、延王、よくご存知ですね?」
「むっ?」

 陽子は他愛なく、尚隆の博識を誉めそやした。

「室町の頃にお生まれの延王が江戸時代の遊戯をご存知とは。流石に長生きされているだけの事はある!」

 尚隆は得意げににやりと口角をあげた。

「なに! 昔は妓楼でも一時期大流行したゆえな。今は然程ではないが、技を磨く事に夢中になっていた当時は俺も気に入りの女を膝に乗せながら博徒達と競い合ったものだ!」

 満面笑顔で答えた尚隆の周囲に、ぞくりとする冷たい空気が漂った。

「今、なんと仰っしゃいましたの? 陛下…」

 自らの失言に尚隆はごくりと喉を鳴らし、強張った笑顔のまま背後に立つ内を振り返った。

「美凰! ち、違うのだ!」
「何が違いますの?」
「い、いや! だ、だからだな…、い、今の話は…」
「存じませんわ!」

 美凰はくるりと良人に背を向けた。
 美しい青菫の双眸に涙が盛り上がり、喉からは嗚咽が漏れる。

「そなたに逢うずっと以前の…」
「嘘ばっかり! 信用できませんわ!」
「ま、待て! お、俺の話を最後まで…」
「お気に入りの女人を膝に乗せられて、一体何の技を磨いておいでであそばしましたのやら!」
「無論、投扇のだな…」

 美凰の悋気にたじたじの尚隆は、愛妃の機嫌を取ろうと必死の体で彼女を抱きしめようとした。

「お触れにならないでくださいまし! 気分が優れませぬゆえ!」
「それはいかん! 俺が介抱してやるぞ!」
「いやでございます!」
「聞き分けのない事を申すな! その様に人前で涙を流していては賓客たる陽子達に失礼ではないか!」
「そ、そんな事! 存じませぬ! 尚隆さまの意地悪! 大嫌いですわ!」

 美凰は真珠の様な涙をぽろぽろ零し、尚隆の腕を振り払うとそのまま泣きながらその場を駆け去ってしまった。



『大嫌い!』

 その単語は稀代の帝王にして、何者をも恐れぬ十二国一の勇武たる延王尚隆を震撼とさせる。
 尚隆は魂が抜けた様な表情をして、呆然と固まってしまった。
 三百五十年も昔の、結婚以前の遊興を詰られてもどうする事も出来ないのだから。

「あのう…、わたし達、ちょっとあちらでお茶してますから…、そのう、心置きなく揉めてきてください」
「そうそう。延王君がつまらない事口走ったからなんだもの! 責任もって事態を収拾してくださいね!」
「仲直りされたらご一緒に飲茶をいたしましょう! あたし、慶から新作の饅頭持参したんですよ!」
「……」

 慶国三人娘の慰め?の言葉は、尚隆の耳には届いていない。
 泣きながらその場を逃げ出した愛妃の後を、顔面蒼白頭真っ白状態の尚隆はよろよろと追いかけて行った。





 陽子達は美味しい菓子を頬張り、香り高い花茶を啜りながら溜息をついた。

「一刻経たないと臥室から出てこない方に一両!」
「あっ! 大きく出たわね! 陽子が一刻って云うんなら、あたしは夕餉の刻限に一両!」
「あらいやだ! 陽子も祥瓊もまだまだ甘いわね! あたしは明日の明け方に一両だわ!」

 そう云うと三人の女の子達は再び、楽しそうに『投扇』に興じだした。





 その頃、鴛鴦夫婦の臥室では…。
 今更の嫉妬に泣き咽ぶ美凰の愛らしい恨み言に閉口しつつも、尚隆の的確な愛撫が柔らかな后妃の身体を大切に慈しみ、彼女はめくるめく快楽に陶酔した。
 無論、尚隆とて心身ともに満たされ、内から得る幸福を満喫したのである。
 そして陽子達の中で誰が賭けに勝ったのか?
 それは神のみぞ知ることであった…。

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